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2010年6月10日 (木)

太政官の何日、徳川の何日

 6月10日は時の記念日。歴史をかじると「その時」が昔のままの太陰暦の日時なのか、それとも太陽暦になおした日時なのか、どっち?悩むことがある。
 太陰暦、旧暦は農耕や昔ながらの行事には今も生きて、旧暦での生活のリズムを大切にしている人たちがいる。『旧暦と暮らす』(松村賢治)には忘れかけていた日本人の暮らしの知恵がかかれていて、季節と行事のズレにもふれている。知っているようで知らないことが多く、いろいろ興味深い。また世界にも宗教やその土地土地、国々にいろいろな暦が存在している。

 日本が陰暦を廃し太陽暦を採用したのは1872(明治5)年、
「来る12月3日をもって明治6年1月1日とさだめられ候」こととなった。そうはいってもすぐに人心が切り替わる訳ではないから混乱する。
 「暦違いで嫁入りの押しかけ」「「新旧暦混して一定せず、これを呼びて太政官(明治政府)の何日、徳川の何日という」。かと思うと「年齢計算法を定める」(『明治日本発掘河出書房新社)など暦がかわっててんやわんやだった。

 そしてこの年は12月がない。なぜか。また折悪しく奉公先の家を退去させられていた柴五郎少年は改暦で正月が早まったため柴五郎少年は、年末どころか正月そうそう路頭に迷うことになった。以下『明治の兄弟 柴太一郎、東海散士柴四朗、柴五郎』<江戸から東京へ>より

「政府は改暦をするにあたり、あらかじめ12月1日と2日を11月30日、31日(新暦にもない)と定めた。そして12月3日を新暦の1月1日にすると、12月は1日と2日の二日間だけになる。このたった二日間の12月をとばしたのである」。
たった二日でも12月があると新政府の役人へ月給を払わなければならないから。

 ともかくこれで西暦と年号が一致することになり、国際的標準時、交通や時間の共有で便利になった。反面、時間により学校・工場(職場)・軍隊・生活が規律化され行動が束縛されることになった。

 しかし新暦の強制は民衆の反発をひきおこし、発禁の民間暦が各種出版され時には官暦より売れたという。暦が変っても太陰暦は農作業や行事、暮しと深く結びついているので、旧暦として使い続けられ今に至っている。
 また改暦まもなくの1月10日、徴兵令が公布された。このときは各種の兵役免除条項が設けられていて国民皆兵主義はつらぬかれていなかった。その後、数回の改正をへてほぼ国民皆兵が実現する。士族にとって国民皆兵令は衝撃で為政者への不満から不穏な動きがみられた。

 ちなみにこの年3月、柴五郎は陸軍幼年学校に合格した。また、徴兵された兵士らは5年後の明治10年、西郷隆盛西南戦争に駆りだされる。

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