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2010年6月16日 (水)

新聞広告元祖/沼間守一

 鳥羽・伏見の戦いに幕府軍は敗れ、ついに西郷隆盛勝海舟が会談、江戸城は新政府軍に明け渡された。旧幕臣の彰義隊脱藩の武士らはこれにおさまらず上野の山に立て籠もり抵抗するも敗れ、生き残った者は各地に散った。
 この情勢に会津藩は大人気となり、佐幕派旧幕臣徳川に縁故のある藩からも続々と人が集まってきた。新政府側から追討命令がだされると
「なぜ賊軍なのか?」奥羽北越の諸藩は奥羽越列藩同盟を成立させた。しかし反倒幕派戦線を急増した陣営だったので、戦況は新政府軍に有利であった。

 こうした状況にあって幕臣の沼間守一(慎次郎・26歳)が兄の須藤時一郎とともに自分が訓練した幕兵20数名をひきつれて会津に脱走してきた。
 沼間は長崎でイギリス人、横浜でヘボン(ヘボン式ローマ字の創案者)に英語を学んだ。また沼間は幕府のフランス式兵制による歩兵科で洋式訓練をうけていた。
 こうした経歴を知る会津藩家老西郷頼母は沼間に、藩士へはフランス式練兵を、少年に英語の教授を依頼した。そして「会津の三郎」こと山川健次郎柴四朗赤羽四郎の他が選抜され、沼間から英語を学ぶように指示された。
 しかし戦のさなかであり西軍の攻撃で宇都宮城が落ちると、沼間は幕兵山川大蔵(浩)ら会津藩兵とともに日光口に出陣していった。そのため勉強どころではなくなった。戦の最中でしかも攻込まれて勝利は遠いのに、少年を選抜し学問させる会津の藩風に感心する。 

 戊辰戦争後、釈放された沼間は日本橋瀬戸物町英語指南所を開いて外国語を教授、谷干城に頼まれ土佐藩邸でも教えた。柴四朗も教えを受けたが塾は閉鎖される。
 沼間は横浜に出て生糸売買・両替商を営むも成功しなかった。次に谷干城らの縁もあり横浜税関に勤務、のち岩倉使節団に随行することになる。これより先の沼野は、政治家・言論人として後世に名を残す活躍をしている。横浜毎日新聞社長、嚶鳴社自由党立憲改進党設立にも参加etc。

 明治12年、沼間は横浜毎日新聞の経営を引き受けたが、仲間の島田三郎肥塚龍らの反対を押しきって
新聞の広告は、新聞の生命である。欧米の新聞社は広告募集に努力奔走している。日本の新聞社も、広告募集に熱中せねばならず、副業に広告社を経営すべきである」として新聞広告を断行、“新聞広告の元祖”といわれる。

 沼間守一には須藤時一郎高梨哲四郎という兄弟がいて、みんな活躍したことから「江戸っ子三兄弟」と称された。
 沼間は天保14年生まれ明治23年没(1843~90)だが遺言は
「自分の法要は、大名の格式で、僧侶百人に読経回向せしむべし」と。その法要は遺言の如く営まれている(『明治文化』昭和12年7月)。

 

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