江差を歩けば歴史が見える
「江差いにしえ街道」復元された歴史の街並みを歩くまで江差のイメージは“ニシン”と“江差追分”のみでした。
“追分”は立派な追分会館があり、その日はスクーリングとかで会場には高校生が大勢、若者の雰囲気は東京と変わらない。情緒豊かな民謡を隣り合わせで聴き、もしかして高校生の中に江差追分の伝統を伝える将来の名人が居るかもしれない。そう思ったら館内に響く江差追分がいっそう味わい深い。
昼に美味しいニシン蕎麦を食べましたが江差で獲れたニシンではないとか。ニシン漁全盛時代は当時の回船問屋(旧中村家住宅)に名残をとどめるのみです。
家屋は北前船が運んできた越前石を積み上げた土台に総ヒノキ造りの大きな二階建てで、元の主、近江商人の財力が偲ばれます。
よみがえった開陽丸で幕末、戊辰戦争を実感したら次は明治です。明治20年に建てられた江差町郷土資料館「旧檜山町爾志郡役所」、瀟洒な洋館二階建てがそれです。
建物に入らなかったので「あれが郡役所」と指差されただけでは忘れそうですが、ボランティアガイド・山田さんの説明を聞いてしっかり記憶に残りました。
郡役所、現在の支庁の前身は江差警察署を兼ねた建物だったそうです。行政と司法が同居していた訳で、郡長は殿様状態ですね。どんなにか権力があったことでしょう。
『明治の兄弟 柴太一郎、東海散士柴四朗、柴五郎』柴太一郎はその当時、青森県下北郡長のち福島県南会津郡長をつとめました。賊軍と言われた会津人としてはなかなかの出世、太一郎の力量のほどが窺がえます。
ところで江差には松前と同じように寺院が幾つもあり全国各地から来た人々が自分の宗派を祀りたいと思う気持ちがくみとれます。それらは江戸の昔に建立されたものが多そうですが、泊観音寺はいつ頃でしょうか。
その泊観音に円空仏と木喰仏が並んで安置されています。ふつう尊い仏は暗い祭壇の奥に奉られているかガラスのケース入りです。
しかし此処ではすぐ側に寄って見放題、もちろん写真も撮り放題です。でも、自分は粗末にしたら罰が当たりそうで写真は撮りませんでした。そのかわり観音寺と目の前に広がる江差の海を写してきました。
江差の人口は一万人を切るそうです。でも大がかりに復元された街並みを郷土資料館の学芸員さん、ボランティアさんの案内で歩くうち、江差の歴史を大事に思う気持ちを強く感じました。歴史を伝えるには偉人や学者だけでなく、その地に住んで生きてる人たちの熱意が大事ですね。地味な二泊三日の観光旅行でしたが、なかなかでした。
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