韓国併合/伊藤博文と安重根
2010年8月で日本が韓国を植民地化してから100年になる。韓流ブームはまだ続いているのだろうか、それとも定着したか。お互いを知るよいきっかけになったと思う。
近くて遠い国が文字通り近い国になってきている。いつか行ってみたい。東海散士(「明治の兄弟」)を描いた者としては閔妃(明成皇后)の墓に詣りたいと思っている。
韓国併合に至る前、日本はロシアと戦争した。日露戦争は参謀本部の予定では一年も続かないはずだったが、戦闘は長引き戦費は底をつき、将兵の激しい消耗でこれ以上の戦闘は困難であった。しかし国民は「薄氷を踏むような勝利」の事実を知らされず、また交渉にあたった日本全権の困難な立場を知る由もなく、ポーツマス講和条約に不満で暴動事件がおきた。
ポーツマス条約調印から2ヶ月後、第二次日韓協約(乙巳保護条約)が調印された。朝鮮は国号を大韓と改めて近代国家への脱皮を目指していた。しかし第一次日韓協約により財政・警察・軍隊など広い部門の日本人顧問を認め、支配されていた。そして第二次協約で外交権をにぎった日本は韓国を保護国化した。
このため朝鮮国民は一斉休業などさまざまな形で怒りを爆発させたが、イギリス・アメリカなど列強は、東アジアでの自らの権益を保障させるかわりに日本を黙認した。
日本政府は台湾につづいて持つことになった事実上の植民地・韓国を重要視し、伊藤博文みずから初代統監の地位についた。
当時、朝鮮各地では抗日闘争が続けられていた。しかし日本軍の作戦で義兵活動は次第に弱まり、伊藤博文は併合強行への一歩を踏み出していた。
1909(明治42)年10月26日、伊藤は中国東北地方の満州視察とロシア蔵相と会談のため中国へ向かう途中、ハルビン駅頭で暗殺された。
暗殺者の安重根には日本人官選弁護人が二人ついた。検察側の死刑求刑に対して弁護人・水野吉太郎は、安重根の動機が
「誤解にいでたりとはいえ、伊藤公をたおすにあらずんば韓国を如何せんという赤誠から出たもの」として懲役三年を主張した。しかし、死刑を言い渡され翌年処刑された。この暗殺事件は併合を強行させることにつながった。1910年8月、韓国併合に関する日韓条約が李完用韓国総理と寺内正毅統監の間で結ばれた。日本は併合と同時に「韓国」として日本・清と対等であった国号を「朝鮮」に改め、朝鮮総督は陸海軍大将から選んだ。総督は天皇に直属し、軍隊を統率、立法・司法・行政のいっさいの権力をにぎった。以後、36年間にわたり朝鮮を支配した。
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