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2010年7月13日 (火)

足尾鉱毒事件/左部彦次郎のなぜ?

 読み書き大好きカルチャーおばさん、話を聴くのも好きで講座や講演会に足を運ぶ。とくに歴史講座は知らない事はもちろん、何となく知る事件や事柄の繋がりが判ったりとおもしろい。また同好の士が集まる講座は知り合いができる。そこで友人になった人から一枚のお知らせをもらった。テーマは
「足尾鉱毒事件 運動初期からの支援活動家 左部彦次郎は谷中村事件のさなかになぜ離脱したのか」(講師・赤上剛田中正造記念館学芸員)
 足尾鉱毒事件といえば田中正造である。伝記(由井正臣・著)を読んで、こんなにも立派な人がいたのかと感動した。しかし左部(さとり)彦次郎ははじめて聞く名で、それも正造から「今 悪魔」とまでいわれた人物だという。興味津々、後で資料を見せてもらった。果たしてかんたんではない、重い。

 足尾銅山から鉱毒渡良瀬川に流入し魚類や農作物に異常が発生した。大きな被害にも拘わらず、社会問題化したのは田中正造が国会に質問状をだしてからだという。
 この質問状の資料調査や要旨を作成したのが東京専門学校(現・早稲田)を卒業したばかりの左部(さとり)であった。左部は早くから鉱毒事件にとりくみ正造と行をともにし、他の幹部らと共に兇徒として逮捕され裁判にもかけられた。
 正造の伝記にも登場する活躍ぶりで、鉱毒反対運動に情熱を傾けていた。しかし、その間に家は没落し愛妻までも喪ってしまった。

 はや40歳をこえた左部はやむを得ず鉱毒事件から身をひき、お互い子を連れて再婚する。となれば職を得て家族を養い生きなければならない。しかしなぜか栃木県庁の土木課に勤め、工事反対派の切り崩し、買収工作に従事した。ために「悪魔」とまでいわれ厳しい非難にさらされる。正造の右腕だったのに、なぜ、敵方の土木吏になったのか。

 左部彦次郎を知ったばかりで知識も浅いがなぜか左部に“寂寥感”を覚える。鉱毒事件支援に上流の村人や支援の学生が多く来たが、だんだんに足尾から離れ自分の場所に帰っていった。
 しかし左部は家を失うまで運動を続けたものの退いた。そしてその先、左部の行動は被害農民にも自分自身にも無惨なものとなった。

 勝手な思いこみだが、左部は運動に身を投じていた時も、正造が敵とする県の陣営に移ってからも孤独だったのではないか。いつも人中にいながら村民でないという遠慮、根っからでなくそこで生まれ育っていない人間は“旅のヒト”なのである。その感情はどうしようもない。
 順調なら表れないズレが生じると微妙な視線を投げかけられる。正造との間にも思想や闘い方の違いから隙間ができつつあったかもしれない。いつしか運動の外に追いやられ、気付けばさびしさと孤独に陥っていたとしたら、その場を離れたくなるだろう。そんなとき誘惑があったら、どうする。
            ~~~~~~~~~~~~~~
<参考>
   論文紹介 <足尾鉱毒事件と左部彦次郎--その生涯と運動への関わり方-->桑原英眞
       掲載誌: 『群馬文化』338号(令和元年12月)


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コメント

脇から失礼します。
左部彦次郎は小生と同郷の人ですが、世間には大分誤解されている面があるようだと思って、自分なりに調べたことがありましたが、一般に想像される以上に鉱毒問題には徹底的に傾注したようです。
しかし残念ながら田中正造翁とは土壇場で問題の解決法に決定的な違いが出てしまって、止むを得ず決裂してしまった、と捉えています。おっしゃるように寂しく亡くなったようです

投稿: 桑原 | 2020年8月28日 (金) 13時38分

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