千島占守島/夏草の間に戦車
今朝NHKが占守島を映し青々とした夏草の間に戦車の残骸が散らばっていた。ここでは遺骨の収集ができていないと元戦車隊の歩兵だった方が語っていた。戦車に乗った兵士たちの写真、そのうちの何人が祖国日本に帰還できただろうか。
夏は戦争を振り返り、戦死者や負傷した人々を想い祈りを捧げる季節でもある。戦争を忘れてはならないと、新聞やテレビが様々の形で伝える。
小学生の孫のいる年代でも戦争について親から聞いただけで実感がない。だから戦争に関する話を見たり聞いたりしたら心にとめておかなくてはと思う。
占守(シュムシュム)島の歴史を明治に遡ると、以前「南極観測船しらせと探検家白瀬矗」に書いたことがあるが、1893(明治26)年には千島開拓に幸田露伴の兄・郡司成忠一行が赴いている。郡司はいったん引き上げるが、残されたのちの南極探検家白瀬矗(のぶ)らは悲惨な孤島生活を三年間もする羽目になった。
それから117年後の占守島の映像が、夏草が生い茂るなかの戦車の残骸である。この千島列島には開拓のはじめから昭和の戦争までいったいどのくらいの日本人が眠っているのだろう。
『コンサイス日本地名辞典』によれば千島列島は以下である。
国後・択捉2島を松前藩の領域または幕府直轄領として、1869(明治2)千島国設置、北海道と合わせてクルミセとよんだ。国後・択捉・紗那・蘂取・振別(クナシリ・エトロフ・シャナ・シベトロ・フルベツ)の5郡をおいた。
1875年 中・北千島が含まれ得撫・新知・占守(ウルップ・シムシル・シュムシュ)の3郡をおく。1945(昭和20)以降、全域をソ連が占拠。
ちなみに1875(明治8)年 駐露公使榎本武揚と露国首相ゴルチャコフの間で樺太・千島交換条約が結ばれた。この条約で樺太島をロシア領とし、ウルップ以北の千島が日本領となる。
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