三浦理一郎(毎日新聞「木語」より)
“三浦文庫とは何か”の見出し。何だろうと思ってそのコラム「木語moku-go/金子秀敏」を読んだ。中国の古典籍研究の話で難しいが、若い日本人学者の感動的な逸話に惹きつけられた。
文中に「今から90年前、義和団事件の賠償金などで基金が作られた」とある。義和団事件と言えば柴五郎!その活躍に国内外から賛辞が送られたのが思い起こされる。中でも八カ国連合軍の総指揮者イギリスのマクドナルド公使は
「籠城した外国人たちの命を救った功績をたった一人に帰するとしたら 、それは物静かで、冷静で、決意にみち、そして機略縦横の日本将校だった」と五郎を賞賛している。
賠償金を得ると軍事に費やすことが多いだろうが、この時は基金を作り、日本と中国の学者を集めて東方文化事業総委員会が組織されたという。日中共同の大がかりな文化プロジェクトだった。しかし日中関係が悪化したために中国側が委員会から脱退する結末になった。
以下“三浦文庫とは何か”より
三浦文庫は上海で客死した三浦理一郎の記念する基金によって出版された書物である。慶応大、東洋大で中国古典学を学んだ三浦は上海の復旦大学に留学、古典籍研究所に移り古典文献学の博士号を取得した。
以後、毎年春と秋に復旦大を訪れる。中国の学者たちも酒杯を交わして学問を語り合うのを楽しみにしていた。だが2007年上海を訪れた直後、突然体調を崩して42歳という若さで不帰の人となった。
葬儀の後、三浦氏の母堂は蔵書を基金とともに復旦大へ寄贈した。古典籍研究所は8000冊にのぼる蔵書で三浦文庫を作り、基金によって双書の刊行をはじめた。木語の筆者は研究のため購入した“王芑孫の年譜”が三浦文庫の一冊でネットで詳しいことを知ったようだ。そのネットの文章は
「晁衡(阿倍仲麻呂)ついに返らず。遺献は後学を恵む」と題されて、古典文献学という地味な学問に取り組んだ日本人への敬意に満ちている。
自分には三浦文庫に納められた書物など、とうてい理解できそうもない。しかし、歴史問題その他で摩擦のニュースが絶えない日中間、こうした地道で尊いつながりの紹介にはほっとする。
それにしてもネットの文章は中国語だと思うのでコラムの筆者が漢文も中国語も自由自在のようで感心するばかり。また何か教えてほしい。
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