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2010年8月 2日 (月)

薩長連合なり会津は「長州正面の敵」に

 NHK大河ドラマ龍馬伝」はいよいよ佳境に入り昨夜は“西郷はまだか”の巻だった。実は大河ドラマをしみじみ見ない。登場人物や人間関係について、知ったかぶりするので家族からうるさがられる。つい、説明したくなっちゃうので遠目にちらっとね。でも今回は当時の会津の立場を話したくてたまらない。興味ある方は『明治の兄弟 柴太一郎、東海散士柴四朗、柴五郎』京都守護職、戊辰戦争あたりの抜粋、読んでみてください。

 京都守護職・会津藩主松平容保の手足となって働く柴太一郎、京都の住いは三本木にあって会津藩公用方の上司・秋月悌次郎らと同居していた。
 ある日、その家を将軍上洛の供奉をする藩主に従い上京した米沢藩周旋方宮島誠一郎が訪れた。宮島は漢詩人・藤井竹外宅で開かれる漢詩の賦会に行く途中、秋月の許を訪れ、会合の場に来合わせたのである。漢詩を通じて藩をこえた交友、公用方、周旋方などの交流によって情報を入手していたのだ。
「文久三(1863)年七月十六日。秋月悌次郎、広沢富治郎(安任)、大野栄馬柴秀次(太一郎)・・・・何れも会藩士有名なり、然に肥前藩長森伝次郎来り、楼上会飲始り、甚だ面白し」当時の京で会津藩士は人気があったようだ。

 このころ攘夷をめぐり、公武合体派と長州藩を中心とした尊皇攘夷派が京を舞台に主導権を握ろうとして暗闘が繰広げられていた。
 ある日、太一郎らの三本木の宿所に突然、薩摩藩士高崎猪太郎らがやってきた。二人は会津藩士広沢富次郎・柴太一郎・手代木直右衛門らを加えて密議、「武力で長州藩士を京都から追放する態勢をとったうえで、一気に攘夷派公卿の一掃」をはかろうとした。
 続いて秘密裏に、薩摩は高崎佐太郎、会津は秋月悌次郎の二人が中川宮のもとに走った。中川宮をとおして勅許を得ようとしたが勅許はすぐにはおりず、薩摩と会津は毎夜のように秘密裏に会合を繰返した。
 やがて内勅が伝えられ八月十七日夜、薩摩と会津は人数を繰出して御所九門を固める。会津と薩摩の藩兵は蛤門から皇居に入り、夜が明けると他の御門守備の藩兵も集結した。
 長州藩は河原町の屋敷から軍装して御所に詰めかけた。

 戦争開始の流言がひろまり、市民は郊外へ逃出した。公卿屋敷・御所の婦女子は風呂敷の様な物など背負い裸足のまま出ていった。
 夕方になって御所に詰めかけた長州藩は引返す(八月十八日の政変)。会津・薩摩両藩を中心とする公武合体派が、長州を中心とする尊攘派を京都から追放したのである。このクーデターで長州藩は追い落され、三条実美ら尊攘派公家七人は都落ちした。

 しかし、公武合体派の勢力は長く続かず、そのうえ会津は長州から「会津は正面の敵」とされてしまった。このことが維新後、「実直に任務を果した会津の人々に辛酸をなめさせた一因」ではないかという説があるが同感である。

 朝敵となった長州藩だが薩摩とひそかに連携する。土佐坂本龍馬の斡旋で薩長の提携が進み、武器購入などで外国に接近していったのである。また朝廷でも議論の末、開港をやむを得ないとして長州に寛大の処置をとることになった。これでは藩主みずから藩士をひきいて上京、難局に当ってきた会津はおさまらない。

 会津藩は薩摩の挙動がおかしいと気づき、柴太一郎は薩摩の知人、内田仲之助のところへ話合いに行ったが、水掛論に終ってしまった。それどころか、薩摩藩士が会津邸内を窺い、それを咎めた会津藩士と小競り合いになったりした。
 そんなある日、見張番所付近に現れた薩摩人数人と会津藩士が斬り合いになり、柴五三郎はその中の一人に深手を負わせた。後でそれが村田新八とわかった。つい先日まで協力して長州を追い落とした会津と薩摩の関係は険悪になり、太一郎は容保に「薩摩は出兵を断る」という話を復命、慶喜にも具申された。

 薩摩と長州はそれぞれ領土を外国軍艦によって砲撃されていた。外国の武力の優秀性を認識させられた薩長両藩の結びつきが倒幕勢力の主体となってゆく。幕府はそれを把握せず、ついに第二次長州征伐を決定する。
 六月、幕府軍艦は長州藩領を砲撃し戦闘が開始されたが、戦況は幕府に不利であった。第一次長州征伐で幕府側だった薩摩藩は西郷隆盛が幕府の出兵命令を拒否、そのうえ朝廷および諸藩にも再征反対の空気が強かった。

 この長州戦争のさなか、幕府にとっても日本にとっても重要な問題が起きていた。まさにこの年末、安政五ヶ国条約で定められた兵庫新潟江戸大坂を開く時期が迫っていたのである。イギリス公使パークスはじめ各国が兵庫に軍艦を差向け、大混雑がはじまっていた。

 たまたまこの日「龍馬伝」のすぐ後の放送はNHKスペシャル「日本と朝鮮半島」日韓会談舞台裏に迫る竹島密約か?だった。二つの番組の間にあるダイナミックな歴史の動きを思うと、今の日本の元気のなさが気にかかる。ただし戦争は嫌だ。

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