柴五郎の8月15日と12月13日(アインシュタイン)
1945(昭和20)年8月15日、柴五郎は正座して玉音放送に耳を傾けた。日露戦争で負傷し耳が少し遠かったので聞き取りにくく、家族に「何とおっしゃった」と静かに尋ねた。五郎は敗戦を覚悟していたが、戦に負けるとどんな目に遭うかを知るだけに心が沈んだ。
気力が衰えたのかその4ヶ月後、12月13日に87歳でこの世を去った。軍国主義を捨てた時代、陸軍大将の死亡記事は短い。朝日新聞はかんたんな経歴と末尾に一行、「宮中杖を差許された」と記すのみ。
五郎の死と同じ12月13日、ニューヨークでノーベル賞祝賀会があり、原子爆弾製造への道をひらいたアインシュタイン博士が注目された。
かつて来日し大歓迎された博士は広島・長崎の惨状を知ってか、この日、
「恐怖から解放せられるべき世界は戦後に却ってその恐怖を増大した。諸国が相互に対する態度を改めないならば、これによって惹起せらるべき惨害は筆舌に絶するであろう」
世界に警告した。
柴五郎の死について自殺説がある。筆者は五郎の次女西原春子さんをお訪ねした折、確かめたかったが切り出せなかった。
五郎は亡くなる前日まで麦踏みをしていて、ごく普通であったのに翌朝、長女みつが気付いたときは既に亡くなっていたという。
日本の敗戦を知り日ならずして静かに逝きぬ祖父柴五郎 (西原照子)
広島平和記念式典の日に寄せて『明治の兄弟 柴太一郎、東海散士柴四朗、柴五郎』より
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