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2010年9月18日 (土)

ある米沢藩士の幕末、宮島誠一郎

 会津藩・柴太一郎は京都の三本木に秋月悌次郎らと同居していた。そこを藩主に従い上京した米沢藩宮島誠一郎が訪ねてきた。その日、宮島は日記に記す。

「文久三年七月十六日。秋月悌次郎、広沢富治郎(安任)、大野栄馬柴秀次(太一郎)・・・・、何れも会藩士有名なり、然に肥前藩長森伝次郎来り、楼上会飲始り、甚だ面白し」(京城日記)

 ところで、この年(1863)は攘夷をめぐり、公武合体派長州藩を中心とした尊皇攘夷派が京を舞台に主導権を握ろうとして暗闘が繰広げられていた。会津藩公用方の秋月、肥前藩周旋方の長森、米沢藩周旋方の宮島らも「長州の攘夷決行、イギリスの報復行動」など談じている。

 
 またある日、太一郎らの宿所に突然、薩摩藩高崎猪太郎井上弥八郎がやってき、会津藩士と密議「武力で長州藩士を京都から追放する態勢をとったうえで、一気に攘夷派公卿の一掃」を企てた。
 薩摩と会津は毎夜のように秘密裏に会合を繰返し、ついに八月十七日夜、両藩は人数を繰出し御所と九門を固めた。長州藩は河原町の屋敷から軍装して御所に詰めかけたが、夕方になって引返した。会津・薩摩両藩を中心とする公武合体派が、長州を中心とする尊攘派を京都から追放したのである(八月十八日の政変)。

 このとき米沢藩は京都守護職に協力し、長州勢を退去させるのに重要な役割を果している。米沢藩の宮島誠一郎は会津藩士から情報を収集していた。帰国のさいには施薬院で秋月と太一郎に挨拶、礼をのべている。

 
 宮島誠一郎と柴太一郎の二人は明治30年代「史談会」(会長・子爵由利公正)の評議員、特別会員として名を連ねているが、再開して何を語り合ったろう。
 宮島についてここまでしか知らなかったが、思いがけず『歴史読本』幕末史の新・視点号「政局を左右した知られざる米沢藩の動向」に宮島の名があった。その辺りを抜粋すると以下である。

 慶応2(1866)年長州戦争は幕府軍の敗北に終わる。米沢藩主は世子を京において帰藩するが、宮島は命をうけて江戸の向かう。江戸でさまざまな人物接触し政治情報を得るため働き、会津藩江戸留守居石澤らと会ったりもした。また、京にいる米沢藩世子の帰藩許可を得ようと嘆願書を携えて再度、京へ向かう。

 このように幕末は、勤王の志士だけでなく諸藩の武士が藩の意向を受け、あるいは自らの意志で京へ、江戸へと東奔西走していたのが判る。ちなみに宮島誠一郎はのち貴族院議員となる。

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