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2010年10月 4日 (月)

後藤象二郎の半生―――「明治の兄弟」より

 今夜のNHK大河ドラマ「龍馬伝」は、幕府を廃する議論が公然と行われるような情勢にいよいよ大政奉還の話であった。
 1867(慶応3)年、土佐藩士後藤象二郎は二条城に登城、大政奉還をすすめた。建白の主旨は坂本龍馬が作成したものである。将軍慶喜はこれを受入れ、幕府の諸役人、五十余藩の重臣を集め政権返上を告げた。
 ドラマの後藤象二郎を初めて見た。後藤は『明治の兄弟 柴太一郎、東海散士柴四朗、柴五郎』の東海散士柴四朗と交流があり、たびたび登場しているので抜き書きしてみた。

          龍馬と京へ
 紀州に山東直砥なる人物がいる。はじめ高野山の僧となるが感ずるところあり幕末維新の日本を駆け回る。志操が右に左にぶれるまま行動、波乱の人生をキリスト教に帰依して終わる。
 その山東が樺太開拓が急務であると考え、海援隊の力を借りようと長崎に赴き坂本龍馬に面会した。折しも龍馬は後藤象二郎と京都に赴く所だったので、山東は汽船に同乗した。龍馬と象二郎、名ある人物に会い期待したと思うが目的は果たせなかった。
 
     民選議院設立建白書
 さて、江戸は東京と改称。明治のはじまりだが新日本大急ぎの改革に不平不満を抱く者が多かった。西郷隆盛と同じく征韓論に敗れ下野した板垣退助・後藤象二郎らは民撰議院設立建白書を提出した。「政府を公然と批判し民選議院設立を要求した建白書」は注目を集め、自由民権運動の口火をきった。
 政府が取締りを強化しても世間には不穏な空気がただよい佐賀の乱、西南戦争がおきた。大西郷を担いだ西郷軍には決死の勇気があったが、軍隊を輸送する船舶がなかった。政府に船舶を提供したのが岩崎弥太郎である。

     板垣と洋行
 自由民権運動が盛んになると、各政党は地方遊説など運動を展開した。そうした中、板垣が襲われ「吾死スルトモ自由ハ死セン」は民権運動の合い言葉ともなった。
 その板垣が後藤象二郎とともに洋行することになったとき、「自由党はやっと結成されたばかり、政府の金で洋行するなど以てのほかである」と馬場辰猪らに反対されたが聞かなかった。

     朝鮮の改革派を応援
 1884(明治17)年、朝鮮ソウルでクーデター甲申事変おこる。急進開化派の金玉均らが日本に亡命、親日政権を樹立のため福沢諭吉や後藤象二郎らと連絡をとりあった。
 朝鮮の改革を応援する日本人は、現状のままでは朝鮮も清国もヨーロッパの強国のために侵略され属領となる。そこで朝鮮が独立を全うし文明を開発し相当の武力をそなえ日本と提携し、侵略を未然に防がなければならないと援助したのである。
 当時、国権派も民権派もこぞって政府の対外軟弱を非難し、朝鮮進出を企てた。大井憲太郎らの渡韓計画や後藤象二郎らによる壮士募集もあった。国権拡張の意識が強烈で政府は抑制しようとするも、政府もまた富国強兵をすすめていたので押し流された。

     熱海に別荘
 話はそれるがこのころ後藤象二郎は熱海に別荘を建てた。熱海は古くからの保養温泉地であるが、明治になって維新功臣の遊楽地としても発達した。明治二十年代になって上流階級の別荘熱がおこり、「東京の本邸を抵当にして別荘を作る」という奇談もあった。
 また東海散士が『佳人之奇遇』第二編を出版すると、象二郎は暘谷(ようこく)居士の名で序をつけた。

     大同団結運動
 「行政整理、政費節減」は百年河清を待つのと同じ、達成できない。そのころ幕府が結んだ不平等条約を対等条約とするため政府が交渉をはじめたが反対運動が激しかった。外国人裁判官の採用を反対したのである。「地租軽減、言論の自由、対等条約」が掲げられ民権運動が復活した。
 そのころ自由民権運動は四分五裂、沈滞していたから、「小異を捨てて大同につき一大勢力を形勢しなければ、とても政府に対抗できない」と全国有志大懇親会が開催された。大同団結運動である。それに大政奉還の立役者後藤象二郎が担ぎだされた。
 後藤は長崎に行って樟脳を外国人に売り、土佐藩の蒸気船を買うなど才覚があったが、同郷の谷干城は「あのとおり機敏な人であるから」と、後藤と行動をともにする東海散士にいい顔をしなかった。

    東北遊説
 いよいよ運動がはじまり、福島で「東北七州有志大会」が開かれた。この日の懇親会は後藤象二郎と柴四朗を迎えて300人も集まり盛況だった。会場の外を巡査が固めていたのは、保安条例で東京退去させられた者がいるし、懇親会とはいえ雰囲気がいつもと違い警戒したのだ。
 後藤と四朗ら一行は東北各地を巡回し、甲信地方を回って帰京した。大同団結運動は関東・東北にとどまらず九州までたちまち全国に広まり、団結が強められた。

    高島炭鉱事件
 当時、日本は先進国に追いつこうと産業の発達を急ぐあまり、各地の炭鉱などでは低賃金で強制労働が行われ、囚人労働まであった。
 もと肥前藩の高島炭鉱は明治期に長崎のイギリス人グラバーと共同経営、殖産興業の一環として開発が進められた。その後、官営となり後藤象二郎の蓬莱社に払下げられた。しかし事業は失敗、負債が増加した。今度は福沢諭吉の仲介で三菱が炭鉱を買収、やがて三菱のドル箱事業となる。
 炭鉱では官営時代も囚人を使用したが、三菱経営後も過酷な労働は継続され、六回も暴動が起きた。「三千の奴隷を如何にすべき。世論は何が故に高島炭坑の惨状を冷視するや」(三宅雪嶺『日本人』)と大きな問題となった。

     大同団結の決意はどこに
 獄中にあった政治犯が憲法発布の大赦で解放された。出獄した河野広中に三宅雪嶺らが福島県まで会いにいった。後藤の要請で大同団結のため上京を促したのである。ところが当の後藤は黒田内閣の逓信大臣として入閣。
 大同団結に集まった者たちは悲憤の涙にくれ「後藤に売られた」と叫んだが、後藤は「大同団結の目的を内部より達成するために入閣した」と平然としていた。“大同団結の親分が籠絡(ろうらく)"され政府の思うつぼにはまったのである。
 後藤の行動に柴四朗、陸羯南らみんなで不満を言ったが、谷は「後藤は国のために尽す心がなく、政党を自分のために利用する人物だから怪しむに足らない」という。“大同団結の決意は何処”である。

 大隈外相が条約改正問題に関し襲撃されると黒田内閣は総辞職、山県内閣が成立した。山県内閣は議会操縦のため後藤象二郎、陸奥宗光を入閣させた。第三議会は冒頭から波乱のすべり出し、政府提出案は殆ど否決、追加予算案は削られやっと成立した。
 閉会後、松方内閣は総辞職、伊藤自ら出馬しトップレベル元勲総出の重みで議会を圧しようとした。このとき後藤は農商務相。

 明治20年代、民権諸派統一の盟主と仰がれた後藤だが、晩年はひそかに韓国顧問をつとめ、不遇のうちに没した。 

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コメント

講座の最終日には、様々なお話をありがとうございました。
その後、お変わりなくお過ごしでしょうか。
今後ともどうぞよろしくお願い致します。


投稿: マエダ | 2011年7月29日 (金) 12時52分

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