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2010年12月23日 (木)

裁き裁かれる師弟:河野敏鎌と江藤新平

 孫からジングルベルの音付きカードが届いた。想い出のクリスマスがある。十数年前の年末、夫と娘と三人でオーストラリアに行った。Tシャツに短パン軽装でシドニーの街を楽しみ、南十字星を仰ぎ見てホテルに戻ると、お揃いの白と赤を着た合唱隊がずらり。ロビーはクリスマスキャロルに満たされていた。おお、グリーンクリスマス!素敵!

 ところで日本最初のクリスマスは? 年表をみると1874(明治7).12.25築地東京第一長老教会で初の祝会開催とある。この年代辺りを徳富蘇峰は「維新史の山」といい、開国以来の動揺が治まってなかった。
 以下『明治の兄弟 柴太一郎、東海散士柴四朗、柴五郎』と『維新後の人物と最後』(求光閣・明治35)より。

Photo_4  明治政府になって戊辰戦争から凱旋してきた兵隊のエネルギー処理のために、征韓論を主張する動きがあった。木戸孝允は国内の混乱を転嫁するため兵士の朝鮮派兵を唱えた。
 朝鮮制覇は将来の「万国経略進取の基本」、西郷隆盛板垣退助らはすぐにも征韓を実行しようとした。
 これに対して内治優先を主張する大久保利通らは強硬に反対した。すでに侵出している列強と戦えば負けることを知っていたからである。結局、韓国派兵は中止となり陸軍大将・西郷隆盛は辞表をだし政府は分裂する。

 明治7年1月、西郷と同じく征韓論に敗れ下野した板垣退助・後藤象二郎副島種臣江藤新平ら八人が民撰議院設立建白書を提出した。
 「政府を公然と批判し民選議院設立を要求」は世間の注目を集め自由民権運動の口火をきった。政府は取締りを強化したが世間には不穏な空気が漂い、西郷は薩摩に帰り今にも何か事が起きそうな情勢になる。

 やはり事がおきた。政変に敗れて下野した元参議・江藤新平が蜂起し、佐賀県庁を襲ったのである。この佐賀の乱に政府は迅速に対応し、ただちに熊本鎮台司令長官谷干城に出兵を命じた。
 まもなく政府軍は佐賀県庁を奪回する。江藤新平は高知で捕えられ4月、処刑された。
 イラスト: 『佐賀の夜嵐 江藤新平』近代デジタルライブラリー

 
  それにしても余りに迅速な政府の対応。<ライバル・江藤新平の抹殺狙い「大久保利通らの陰謀だった」>(毛利敏彦・毎日新聞)は説得力がある。同時代人も江藤を惜しむ。

「時の政府を転覆して以て自己の意見を実行せんと真意に至りては亦た已む可らざるなり」と。そして新平の一句を書きしるす。

大丈夫の涙は袖にしほりつつ迷ふ心はただ国のため
国を思う人こそ知らめ武士(もののふ)の心つくしの袖の泪は」

 捕らえられた江藤新平に斬刑を言い渡したのは、江藤に法学を学び彼を敬慕する河野敏鎌(のち枢密顧問官、憲法審議に参加)である。恩師を裁いたその心情は・・・・そのとき敏鎌30歳、新平40歳であった。

 勇敢なる恩師の情を追想するや思わず二三歩を退き悲然として嘆息せりといふ。子弟の情や又興りしなるべし。然れども公事須らく至誠ならざるべからず。私情の為に公を曲げ誣を以て天下の大義を誤るが如きは元より敏鎌の学ばざる所也。箕資師新平の断頭台上に見ゆる当時を追想せは情あり。涙ある吾人の感や果たして如何。敏鎌の心中深く察諒せさるを得ざる也。
 (『維新後の人物と最後』岩崎徂堂須藤靄山近代デジタルライブラリー

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