道の駅みさわ斗南藩記念観光村【先人記念館】
2010.12.4東北新幹線が全線開通、東京から“3時間20分で新青森”に到着!
テレビも新聞も青森をとりあげている。それらを見るにつけ6年前の夏、その方面へ出かけたのが思い出される。
「明治の兄弟」を纏めるにあたって史資料に頼るだけでなく、柴兄弟を身近に感じたくあちこち出かけた。青森県へは2泊3日の旅で浅虫温泉に泊まって良かった。細かいことはすっかり忘れてしまったが、斗南藩史跡、野辺地、広澤牧場(先人記念館)など訪ねた。
新幹線は八戸まで、乗り換え迄1時間あり駅の外へでたら図書館の分館があった。さっそく資料探し、現地ならではの資料をコピーした覚えはあるが、何だったか思い出せない。
この旅で印象的だったのは、1872年(明治5)元会津藩士・広澤安任が開いた我が国初の民間洋式牧場、現先人記念館までのバスだった。
途中の三沢空港、青森県立三沢航空科学館までは乗客がいたが、その先から終点の記念館まで私たち夫婦のみで1時間以上走り続けた。やっと着いた記念館は休館、仕方なくとんぼ返り。以下『明治の兄弟 柴太一郎、東海散士柴四朗、柴五郎』から。
北辺の洋式牧場
広澤安任は、幕末の京で活躍し交際が広く政府内にも知己があり、進取の気性に富んだ人物であった。斗南人の生計の道を開こうと、現在の三沢市小河原沼の東、谷地頭に酪農主義農場の開拓をはじめたのである。
そしてイギリス人技師ルセーとマキノンの二人を雇い、彼らの指導のもと農具などをイギリスから輸入することにした。その二人を通訳兼案内人として連れてきたのが柴四朗(東海散士)である。“陸路を二十日余りで青森”三沢の牧場に着いた。
開墾村牧場は現在「斗南藩観光村」になってい、JR三沢駅からバスで1時間以上走った所にあって、当時の建物も再現されているが小さい。
技師の一人マキノンはスコットランド出身、農学校で畜産学を修めた勤勉な農夫であった。その御雇い外国人二人が狭い住居で、下北の冬に耐えて働いたのかと感心すると共に、粗末な小屋に開墾の厳しさ、困難が思われた。
それにしても、バスが町中を抜けると道は何処までもまっすぐで人家は見あたらず、まるで原野を行くようだった。視界が開けていいが冬は吹きさらしで寒さは厳しいだろう。夏のやませといい、農耕に厳しい環境のようだ。
明治初年は未だ交通が不便で大変だったろう。ここまで徒歩で来るのは容易でない。ましてこの地に骨を埋めるにはよほどの覚悟がいったはずである。
ところで、当時の四朗はまだ通訳としては英語が十分でなかったようであり、勉学の志も強くまもなく牧場を離れた。家にもどって開墾の手伝いをしていたが、しばらくして箱館に渡った。あちこち放浪して就学の道を求めたが見つからず、次に弘前に出て東奥義塾に入った。
ついでながら、この広沢牧場「開牧社」に弘前から東奥義塾を再興した本多庸一、メソジスト派宣教師ジョン・イングがしばしば訪れて集会を開いた。明治初年はまだキリスト教が公認されていず、宣教師たちは公式に布教活動ができなかった。
そこで英語塾を開いたり、学校教師となったりして若者をひきつけた。原敬なども学資に困ってフランス人の神学校に入ったり、新潟でエブラル神父の学僕となりフランス語を学んだりした。
当時、東奥義塾が外国人教師を招聘して教育しているのはかなり知られていた。斗南藩、旧会津藩の人々の中にも評判を聞いて学びに行く者があったから四朗もそのようだ。東奥義塾に入った四朗は学資がないので塾の雑用をしながら学んだ。
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