義和団事変における柴五郎の活躍
NHKテレビ「坂の上の雲」第2部が始まった。いよいよ秋山兄弟の活躍が佳境に入ってきた。日清戦争が終わり、秋山真之が米西戦争に海軍から観戦武官として派遣される。そして真之の才能と努力が描かれ、戦術や海戦などテレビならではの表現があり見入ってしまった。でも、柴五郎の登場がなく淋しかった。
歴史を描くとき知り得た事柄を全部書き尽くせない。また、史観もあるから事象の取捨選択をする。枚数にも限りがあるし、的を絞らなければならない。だからよって立つ側の人物中心になるのは仕方がないと思う。自分も柴五郎を書くに当たって陸軍中心だった。
米西戦争には陸軍から柴五郎が派遣され彼も又優れた諜報報告(写真・ワシントン発)を提出している。そればかりか、陸士同期の秋山好古の弟、真之の面倒を見ているのだ。
そしてもっと惜しかったのが義和団事変(写真・北京発)にナレーションでは触れているが、これまた柴五郎のシの字も無かったこと。テレビ画面には秋山好古が清国人をかばう場面があったが、好古の前に柴五郎の業績があった。
少々長くなるが、『明治の兄弟 柴太一郎、東海散士柴四朗、柴五郎』筆者としては柴五郎の名声が世界に知られた義和団事変、ここら辺りは愛着がある。以下、読んでみて下さい。
ちなみに、諜報報告は防衛研究所図書館蔵。筆跡は柴五郎ではない。
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義和団の乱
イギリスから帰朝した五郎は参謀本部に出仕していたが、ちょっとの間という内命で清国公使館付となった。
当時、清国は日清戦争に敗北して日本に賠償金を払うため、ロシア・フランス・イギリス・ドイツから借款をし、その見返りに鉄道敷設や利権を求められ西欧列強の餌食となっていた。
そうした中「扶清滅洋。清朝を助けて西洋を滅ぼそう」と叫ぶ義和団の乱がおこった。はじまりはドイツの山東鉄道敷設工事に対する山東省民の反抗からで、鉄道を襲いキリスト教会堂を打ち壊した。反乱はたちまち?西・四川・広西・福建・雲南に波及し、北京を包囲するまでになった。
北京公使館区域の東交民巷は紫禁城を背にして天安門の左手にある。その一画は公使館、諸外国の商社、銀行、邸宅などがあり治外法権を享受していた。北京在住の外国人たちはここに立てこもり、軍艦から水兵を呼び寄せ防衛しつつ援軍と救出を待つことにした。各公使館より出迎えを出すことにし、日本公使館から杉山彬書記生が行ったが、人力車に乗り永定門を出たところで敵の騎馬隊に撃たれて即死、ドイツ公使も殺害された。
日本は清国臨時派遣隊(司令官福島安正少将)を清国に派遣、続いて第五師団、野戦砲兵第十六連隊などが宇品を発した。
天津に上陸した日本軍はイギリス・ドイツ・ロシア・フランス・アメリカ・イタリア・オーストリアの8ヶ国連合軍を編成した。これまで西太后はこの反乱を国権回復に利用しようとして手を施さなかったが、ここに至り清朝は硬化して列国に宣戦布告をした。
北京救援に向かった陸戦隊は義和団と清国官兵の激しい攻撃にさらされ退却。これにより天津・北京間の鉄道および電線を破壊され、交通は断絶、北京は孤立してしまった。
北京籠城
さて籠城となり各国公使館はそれぞれ守備隊を編成し武官会議を開いた。全体の指揮はイギリス公使マクドナルド(のち駐日大使)であるが、籠城がはじまって少しすると、作戦用兵の計画は柴五郎砲兵中佐の意見できまった。
それは外国人たちが認めるほど能力があったのはもちろん、人柄もよく誰からも好かれたからである。五郎は英語・フランス語に堪能であったから外国人武官に作戦をよく説明できたし、また指揮官マクドナルド他への連絡文もみずから書いた。
軍人が少ないので義勇隊が組織され、日本人は公使館書記官・学者・留学生・電灯会社技師・新聞記者から写真師まで33人が参加した。列国それぞれ守備隊が組織され、義勇兵の一人にロンドン・タイムス北京特派員のモリソンがいた。
オーストラリア人ジャーナリストG・E・モリソン(映画「北京の55日」俳優チャールトン・ヘストン)は五郎(俳優伊丹一三)を認め、二人は友人になる。
東交民巷に籠城した人員は11ヶ国の外交官・居留民・8ヶ国の護衛兵・教民・清国人召使いなど計4千人以上、しかし義和団の兵は何万であった。
6月中旬、義和団が北京城外にまで迫るとモリソンはイギリス兵や義勇兵を率いて教民を義和団の虐殺から守り救出した。500名余の教民は粛親王府に保護された。粛親王府は公使館区域の端にあり、柴五郎が離れた所に避難している粛親王の許に危険を冒して行き、借用の許可をえた一郭である。
五郎率いる日本の籠城軍は水兵、義勇軍33、原大尉、安藤大尉の計61人であった。義和団と清国軍の砲撃は休みなく続き、次第に城外の様子も分からなくなった。東交民巷の防衛線はオーストリア公使館の焼失から将棋倒しに崩されてきた。
そこで五郎は各国公使に粛親王府を守るべき事を説き、もっとも攻撃の激しい粛親王府を兵力最小の日本が守ることになった。
北京籠城中における五郎の事歴と勲功は彼の生涯の圧巻で、人望あつく連合国の軍民に頼りにされ、北清事変の花とうたわれた。外国人の目に映った五郎の活躍は、「戦略上の最重要地・粛親王府では、日本兵が守備のバックボーンであり、頭脳であった。日本を補佐したのは頼りにならないイタリア兵で、日本を補強したのはイギリス義勇兵であった。
日本軍を指揮した柴中佐は、龍城中のどの国の士官よりも有能で経験も豊かであったばかりか、誰からも好かれ、尊敬された。当時、日本人とつき合う欧米人はほとんどいなかったが、この籠城を通じてそれが変わった。日本人の姿が模範生として、みなの目に映るようになったからだ。
日本人の勇気、信頼性そして明朗さは、龍城者一同の賞讃の的となった。籠城戦に関する数多い記録の中で、一言の非難も浴びていないのは、日本人だけである。ピーター・フレミング」(『北京燃ゆ/義和団事変とモリソン』)
外国人女性も、「柴中佐は小柄な素靖らしい人です。彼が東交民巷で現在の地位を占めるようになったのは、一に彼の智力と実行力によるものです。なぜならば、第一回朝の会議では、各国公使も守備隊指揮官も別に柴中佐の見解を求めようとはしませんでしたし、柴中佐も特に発言しようとはしなかったと思います。
でも、今ではすべてが変わりました。柴中佐は粛親王府での絶え間ない激戦で怪腕を奮い、偉大な将校であることを実証したからです。だから今では、すべての国の指揮官が、柴中佐の見解と支援を求めるようになったのです。
日本兵は、いつまでも長時間バリケードの後に勇敢にかまえています。その様子は、柴中佐の下でやはり粛親王府の守備にあたっているイタリア兵とは大違いです。北京に来ているイタリア兵はイタリア本国の中でも最低の兵隊たちなのだと私はイタリアの名誉のためにも思いたいくらいです(P・C・スミス嬢)
このような苦しい状況にあって北京では一日も早い救援を待っていたが、天津居留地の連合軍は防御に追われ、進軍するどころではなかった。北京からは天津に向け各国公使館がそれぞれ救援を願う密使を出したが、誰も使命を果たせなかった。ただ一人五郎が出した捕虜中から選んで天津へ赴かせた密使、張徳盛だけが届けることができた。
「今や全く糧食欠乏し、籠城者の身命旦夕に迫れり、敵の攻撃は日一日と激烈を加えぬ、故に事情の如何に拘わらず、一日も速やかに援軍の来たり救わん事を熱望す」。実際、馬も食べ尽くしてしまっていた。
驚いた連合軍は急ぎ前進を決定、返書を託し、金を与えようとしたが「国家のため、この使節をまっとうしたり」と賞金を断わり、返書をもって敵陣の中を北京に戻っていった。
天津の連合軍は五郎の密書によって籠城者の困難を知り、後方輸送の都合を顧みず北京へ猛進、そして8月ついに4万の連合軍は北京城外にせまり総攻撃をした。籠城63日にして待ちに待った連合軍の北京入城、日本軍も日本公使館に到着した。西徳二郎以下公使館員はみな笑顔で出迎え、五郎は救援の福島少将と固い握手をした。
五郎は第五師団の指揮下に入り、日本の受け持ち区域で軍事警察衙門長(警務長官)として軍政を担当することになった。戦い終了後、第五師団の兵站監として出征していた秋山好古が清国駐屯軍司令官になり、五郎は久しぶりに秋山とも顔を合わせた。
略奪は許さない
列国の軍隊が北京に入城すると清国皇帝、西太后、政府要人らは北京を脱出した。そのため北京市内は無政府状態となり、連合軍兵士の略奪事件が続出した。しかし柴五郎は日本兵の徴発・押買・略奪を許さず、清国人をよく保護した。ために五郎の徳を慕って外国軍の管区から移住する住民が続出した。
五郎は清国内を探査した経験もあり中国語もよくでき清国民の訴えを理解できた。日本の管轄地は商店が多数ならび旅館や劇場まで作られたほど栄えた。
五郎は温厚な武人であり、手柄を自慢せず、籠城のときの清国教民の献身的な協力に感謝の念を忘ず情のある軍人行政を行った。戦えば強いが、民政も立派にこなした。
五郎への賛辞は内輪の日本からだけではない。義和団事変から数年後、総指揮をしたイギリス公使マクドナルドはロンドンで講演、柴中佐の北京籠城における偉大な功績を
「すべての者がよく働いたが、かりに籠城した外国人たちの命を救った功績を、たった一人に帰することができるとしたら、それは、この物静かで、冷静で、決意にみち、そして奇略縦横の日本将校だった」と讃えた。
北京の連合軍はそれぞれ持ち場区域を守備しながら、城外の各地を掃討しては占領していった。中でもロシア軍は満州各地、黒竜江省城・吉林省城・瀋陽を占領し東清鉄道を手にした。
籠城から4ヶ月たった秋、柴五郎は警務長官として騎兵一中隊を率いて、清国皇帝に従い難を避けていた慶親王を迎えに行き、無事に北京の邸宅に送り届けて感謝された。
1900(明治33)年10月、義和団事件に関する第一回北京列国公使会議が始まり、清国側全権と交渉を開始する。翌年9月、「義和団事件最終議定書」が日本・アメリカ・イギリス・フランス・ロシア・ドイツ・オーストリア・イタリア・ベルギー・スペイン・オランダ11ヶ国代表と清国側全権の間で調印された。
その結果、清国は11ヶ国に対し賠償金4億5千万両を39年間で払うことになった。それのみならず、北京の公使館に護衛兵をおき常置する権利をはじめとした駐兵権を認め、植民地化がいっそう進んだ。
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