日韓の映画史から見える時代
2010年秋、“中野ジェームス修一と行くスポーツキャンプinバリ島”若い人に交じり参加した。一行は水中、陸上の様々なスポーツを楽しんだが、私たち夫婦は観光目当てだ。ちなみに中野氏はテニス伊達公子選手ほか有名選手トレーナー。海外のリゾートでスポーツを楽しむ世代に交じると、映画が娯楽だった昭和と隔世の感がある。
平成の今、テレビやDVD、雲の上でも映画が楽しめる。ガルーダインドネシア航空でジャッキー・チェン「ベスト・キッド」を見た。英語も中国語もさっぱりだが、ストーリーは単純で楽しめた。
映画とことば
英語と中国語がとびかう映画を見たが、一口に中国語と言っても北京語、広東語など地方ごとに発音や語彙が異なる。佐藤忠男『映画の真実』(中公新書)によると、中国では映画のトーキー化が始まったとき、国民党政府はすべての映画は標準語としての北京語でセリフを話さなければならないと決めたという。国民党政府は映画のセリフで標準語の普及を図ったのである。
また台湾の場合、日本の植民地時代は日本映画と北京語による中国映画は見ることが出来たが、地元の台湾語による映画はなかった。日本の統治を離れてはじめて台湾語で映画を作る自由を得たのである。
さて、映画が写しているのは何?現実それとも絵空事?現代劇といえども現実そのものでなく、美化したものも多いだろう。時代劇でも制作時の社会の風に吹かれ、時流や思考、当代の現実らしきものが画面のどこかに見え隠れしていそう。
映画に限らず表現は自由になっているが無制限ではないから、時には問題が起こる。でも現代は「制限された事物」を社会に訴え、議論もできる。しかし、戦前の日本や前述の中国、植民地の韓国や台湾だとそうはいかない。そもそも映画作りのはじめから強い縛りがあり、完成しても検閲を通らなければ観客の目にふれない。
日本と韓国の映画史
映画から日韓の近現代をかいま見ようと思ったのは“開化期から開花期まで『韓国映画史』”(キム・ミヒョン責任編集・キネマ旬報社)を手にしてである。この映画史で日本が植民地韓国に何をしたか、それに対し朝鮮の人々がどんな思いであったか、その一端を知った。又、興の赴くままに観る映画、作り手の志を知ればいっそう興味がわくとも感じた。
ひるがえって日本の映画史をと『映畫五十年史』(筈見恒夫著・鱒書房)を読んだ。戦中の本で紙質は悪いが実に多くの映画を見、驚くほど映画と制作に造詣が深い著者に感服した。
著者筈見は映画の脚本も書き、25歳で東和商事(現・東宝東和)の宣伝部長となり、ヨーロッパ映画の輸入宣伝のかたわら、評論活動を続けた。財団法人川喜多記念財団HPに淀川長治らと一緒の写真や著書の紹介あり。ちなみに同HPの資料探訪には戦前の宣伝、検閲の項がある。
『韓国映画史』は2010年刊で新しい。朝鮮戦争と南北分断、軍事独裁政権による過酷な検閲、その先の現代まで記述がある。しかし『映画五十年史』は1942(昭和17)年刊、太平戦争までで終わり。そこでこの2冊の時代が重なる1942年頃までを見てみる。
映画の始まり
日本に映画が来たのは1896(明治29)年で映像はアメリカ市街の風景、火災消防などであった。大阪南の演舞場で活動写真を公開の時、警察の許可が下りず、交渉の末やっと興行の許可がおりた。浅草では大火後のバラックで活動写真を興行した。
活動写真が全盛のころフィルムの提供は全国でわずか三人、その一人が孫文との交流で知られる梅屋庄吉であった。動く写真、欧米の風俗は当時、日清戦争の大勝利によって、一流国民の圏内に近付こうとする日本国民の心を捉えた。
天然色活動大写真、顕微鏡映画「蛙の血液循環」「腸窒扶斯菌(ちようちふすきん)」、劇映画「ナポレオン一代記」「馬鹿大将」(ドン・キホーテ)など輸入封切りされた。また映画館の誕生と共に映画説明者“弁士”いわゆる“活弁”が現れた。
1910年、悪の英雄「ジゴマ」(フランス)に観客が殺到、子どもの遊びにジゴマごっこが現れ上映が禁止されたりした。
当時、映画の検閲は各府県別になされ統一的でなかった。ジゴマの上映禁止は第二回目で、第一回は1908年、神田・錦輝館「仏蘭西革命ルイ十六世の末路」である。しかしこの時は「北米奇譚巌窟王」として同一映画を上映、事なきをえた。
ルイ十六世をアメリカの山賊夫妻とし、その豪華放埒な生活も悪運尽き民衆に捕らわれ、儚い末路を遂げることにしたのである。
“弁士という重宝なもの”がいて、どうにでも都合よく変えられた。西洋ものは一人の弁士、日本映画は鳴り物囃子入りの演出だった。
明治期みるべき記録映画として、白瀬矗中尉の南極探検と日露戦争・旅順開城の実況がある。劇映画ははじめ歌舞伎の舞台を実写したものだったのが、尾上松之助の出現など映画が変わり、興行も軌道にのるようになった。明治末期には五つの撮影所があった。
1910年代 日本映画
大正時代、映画がようやく企業として成り立ち、Mパテー会社・梅屋庄吉の提唱により有力4社で「大日本フィルム機械製造株式会社」(日活)を創立した。日活は「尼港最後の日」(1920年)シベリア尼港(ニコライエフスク)でパルチザンの捕虜となった日本人将兵・居留民が虐殺された事件を映画化した。映画中の日本領事夫人には女形の衣笠禎之助が扮した。
歌舞伎に代わって登場した新派映画だが、女形を用い現代の服装をした旧派を繰り返した。いっぽう若い知識人は手当たり次第に借り着の思想を身につける。浪漫、自然、享楽主義、そしてシェークスピアやゲーテが新しいものとして登場する。
松竹は女優を採用。蒲田映画の傑作の一つ「山の線路番」を1923(大正12)年封切った。そこには自然主義的な人物の描写「生まれざりしならば」というような暗い絶望が見られた。同じ伊藤大輔作品「女と海賊」も従来のヒロイズムや勧善懲悪一点張りとは異なり、人間が人間であろうとして、不安と焦燥にかられて行く近代の苦悶が伺える。
当時の日本映画について演技、演出、作劇法などは新劇派、新派的、アメリカ映画的の三つに分類される。
第一次世界大戦によって未曾有の好景気がもたらされ、軍需工業が興り、庶民も小遣い銭の廻りがよくなった。しかし、好景気の反動で憂鬱な世相、見通しのつかぬ不安時代へと移り、やがて関東大震災に見舞われる。
震災を背景とした劇映画が作られるが、粗製濫造の際物で出来映えは今ひとつ。だが、大震災は映画作家たちに「人生の無常、形式的なものの破壊」を感じさせたのである。
鈴木謙作「大地は揺る」は大震災で焼け出された富豪一家が、若いコックの腕一本の力強さに屈服する。日本映画として最初の階級的な対立が意識化されている。
植民地時代(1910~1945年)の韓国映画
韓国でも1897年ころ活動写真が入ってきたが、儒教的な閉鎖構造のため、近代化された西洋文化を受け入れる条件が整っていなかった。
外国映画が興行を主導し1910年から外国映画全盛だった。映画は日露戦争を描いた「決河屍山」(1913年)などの実写物からフランシス・フォード監督の連続活劇「名金(金貨のかけら)」のような劇映画が好まれるようになっていた。韓国映画はまだ芽を出せずにいた。
1923年、朝鮮総督府逓信局による貯蓄奨励用の啓蒙映画「月下の誓い」(ユン・ベンナム脚本監督)は日本人の太田同の撮影と編集で完成した。
翌年初めての純粋な韓国映画「薔花紅蓮伝(ちやんふぁほんによん)」が制作された。韓国の映画は朝鮮半島の植民地化とともに始まったので、日本の検閲を避けられなかった。
1924年「海の秘曲」悲恋物語は俳優陣を除いたスタッフ全員が日本人であった。植民地時代約150本の映画を制作、無声映画の傑作もある
1926年「アリラン」(ナ・ウンギュ監督)は当時の韓国人を衝撃と興奮で包み込んだ。植民地状態から出発した韓国映画は民族のリアリズムを直視した。
「アリラン」は何年も持続的に全国を巡回上映され、状況、弁士の政治的傾向により幾通りものテキストがあった。
当時、弁士はスターであり、観客は弁士の解説を楽しんだが、内容は固定されていなかった。たとえば臨席する警官がいるのと、いないのとでは、解説が違ったのである。
検閲と国策映画
1925年、府県別に行われていた映画検閲が内務省に統一された。東京で禁止された映画が、京都では公然と上映という現象は一掃された。
1936年日独防共協定調印。日独提携「新しき土」が日本側から監督伊丹萬作、原節子、早川雪舟らで制作された。
1937年、盧溝橋事件勃発、ニュース映画が激増し前線と銃後をつないだ。1939年、映画法実施で制作本数の制限、シナリオの事前検閲、情報局案の臨戦体制に添う国策映画が制作された。
「指導物語」鉄道省後援、「わが愛の記」軍事保護院後援、「八十八年めの太陽」海軍省後援、ほかに「元禄忠臣蔵」「大村益次郎」など。
韓国映画を統制下に置いた朝鮮総督府は、朝鮮人志願兵制の宣伝のため「志願兵」や「君と僕」(松竹配給)を朝鮮軍報道部の全面的な支援で制作した。民間映画社の「新開地」(ユン・ボンチュン監督)を最後に朝鮮語の映画は禁止された。以来、韓国では植民地から解放されるまで“日本語”の映画だけが制作されたのである。
親日派監督は、日本の映画会社から派遣された監督および技術陣と合作する中で、朝鮮人俳優とスタッフを動員し、宣伝映画を制作することもあった。
今井正演出、チェ・インギュ補佐の「望楼の決死隊」、豊田四郎演出の「若き姿」などがそうである。ちなみに今井正は戦後の1949年「青い山脈」、翌年「また会う日まで」と恋愛を肯定した映画を制作している。
現在の韓国映画の活気は、歴史的背景と危機、外部の脅威を創作の力に転換してきたからだという。映画の元気はその制作国の文化が元気といえそう。いま現在、日本映画の活況は如何に。
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