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2010年12月12日 (日)

清廉潔白の人、柴五郎

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 テレビ「坂の上の雲」に柴五郎が登場しない(原作は登場)と嘆いたが、同じ日、やはりNHKで「蒼穹の昴(初めての取材)」が放映されこちらには登場している。
 写真は北京日本公使館(『東洋戦争実記第二十編・北清戦史(下)』明治34年発行)

 あるシーンで西太后の動向について、万朝報記者(配役・小澤征悦)と柴五郎(田中隆三)が会話していた。その岡記者が実在の人物か知らないが北清事変(義和団事変)後、「万朝報」に興味深い連載があった。その50回にもおよぶ連載の担当者は公表されていないが、幸徳秋水がキャップとなり、清国特派員堺利彦小林天龍の二人と内村鑑三も関与していたと推測される(『義和団戦争と明治国家』小林一美)。

 ちなみに記事の多くは投稿によるもののようだ。記事が実名・時・場所を記しているところから参戦した兵士の内部告発ともいえそう。その新聞が五郎に対する間違い記事を訂正し「清廉潔白の日本軍人」と太鼓判をおしている。いきさつは以下『明治の兄弟 柴太一郎、東海散士柴四朗、柴五郎』からの引用でどうぞ。

 
 事変後に日本国内である噂がたった。「日本軍は天津馬蹄銀百二十万両を得たが、この一部が第五師団幹部の一部によって横領された。それぞれ商人に売り払ったり隠し持っている」と。
 *馬蹄銀: 中国元代から出現した馬蹄(馬のひずめ)状の銀塊で、大きな取引に用いられたり、隠し持たれたりした。
 議会では柴四朗の同志竹内正志が疑惑を取りあげ、第五師団軍人に調査が及び山口師団長宅も捜索されるという不祥事に発展した。幹部は無罪となったが、『団団珍聞』など各紙がこの事件をとりあげ、なかでも『万朝報』は【日清分捕りの怪聞】と題し連載した。
 記事は軍人を名指し、分捕りの仕方や浅ましい行為を暴露するなど追求が激しかった。このような芳しくない記事にとんだとばっちりで五郎の名がでた。以下、記事を抄出。

      【日清分捕りの怪聞

 第4回: 略奪の激しさを耳にした師団長は略奪を禁止したが、略奪は依然として続き、難を訴える清国人が多くて、「柴中佐と森田大尉の困難一方ならざりし。のみならず遂に第五師団付き将校との間に感情の大衝突」を起こした。

 第24回: 北京陥落後、警務衙門長官となった砲兵中佐柴五郎は訴えを聞くこと公平なり。柴中佐は世に名高き『佳人之奇遇』著者として代議士として世に名高き東海散士柴四朗の弟にして北京の籠城に偉大の勲功あり。柴は機密費に充つべきの名義をもって自己の手元に保管。一人の男が柴の命を受けて香港上海銀行・北京支店で日本に送金をした。
 その額は六万円とも八万円ともいいはっきりしないが、ただ一佐官にして余りにも巨額の為替・・・・・・果たせるかな、帰朝後まもなく地所を麻布笄町(青山)に買い入れ、家屋はその地上に建築されたり。

 第26回: 訂正記事。
 柴が上海銀行に預金したのは事実であるが、それは山口素臣福島安正と協議の上、とくに柴の名を借りて預けたもので、一厘たりとも柴自身の貯金にあらず。柴五郎の外国駐屯中の俸給は谷干城三菱銀行に預けて六千円ばかりになったが、邸宅を五千七百円で買い入れ、なお諸雑費を合わせて貯金全部を使った。買い入れの周旋をなせしは頭山満

 北京駐在中、清廉潔白、真に日本帝国軍人たるの名誉と威信を全うしたるは、福島安正柴五郎青木宣純由比光衛の四人のみなり。
(万朝報は柴五郎の記事を全面取消し、逆に「柴は清廉潔白なる日本軍人の鑑」と太鼓判を押したのである。)

 また記事にある青山の柴邸について五郎の次女西原春子さんから次のようなお話を伺った。
「任地が遠いとき家族も一緒に赴任したので、空き家となった邸を秋山(好古)さんに貸したことがあった。また内山(小次郎のち侍従武官長)さんは原宿に住んでいたのでよく遊びに来た」。しかしこの青山の邸は第二次世界大戦のとき焼失、「軍人の家だから早々逃げ出す訳にいかず、また何も持ち出さなかったので何もかも焼けてしまった」と。

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