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2011年1月 7日 (金)

八甲田、抱き合い軍歌うたって死の彷徨

 昨夏の猛暑の後、此の冬は寒く山陰や東北、北海道には大雪が降り積もっている。車が何百台も雪上に立ち往生しているのニュースが何度かあった。大雪も戦争前だと無謀な訓練がなされ凍死、命を落とすハメになる。

 百年昔の青森地方も例年にない大雪に見舞われたが、日露戦争に備えて「仮想敵侵入に対して援軍をだす想定」で、八甲田山麓耐寒雪中行軍が行われた。

 1902(明治35)年1月、青森と弘前から連隊が雪中行軍に出発した。青森歩兵第五連隊山口大隊210名は猛吹雪にあい遭難。
 死亡者199人凍死、無謀行軍として民間から非難された。当時の新聞をよむとまさに死の行軍、あまりの悲惨に目をそらしたくなる。生還した倉石大尉の報告によればまさに“抱きあい軍歌うたって死の彷徨”であった。
 「24日午前3時前後、露営地を出発しましたが、風雪はなはだしく一寸先も分からず、口髭、眉毛、まつげまで氷柱が下がり、目も開けられぬほどになりました。

 その時の兵士の姿勢は、銃を負い、両手を脇の下へ入れ、終日胴震いをしており、中野中尉のごときは顔面紫色になって小使することもできなくなり、自分(倉石)が二度までも釦を外して小便させてやりました。
 そういう次第で、その日の払暁よりして、凍傷にかかって倒れるものができたので、軍医の勧めに従い、各小隊の兵は互いに抱き合い、軍歌を唱えながら行進。
また全身凍傷にかかり人事不省になったものは、一同その頭と足を持ち、その者の名を呼びながら胴上げをなし、醒覚法を力めて行いましたが、午後三時頃はそれをなす勇もなく、倒れた者を見棄て行くというようになり、この日に総員の四分の一を失いました」(時事新報)

 弘前三十一連隊の方は無事に帰還したものの日露戦争ではこの連隊もふくめ殆どの雪中行軍に参加した兵士が、戦死したという悲惨な話が伝わる。

                               『明治の兄弟 柴太一郎、東海散士柴四朗、柴五郎』より

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