柴四朗、五郎の卒業
春三月、卒業シーズン。身近なところでは孫が二人小学校を卒業する。卒業ソングはなんだろう。昔の“仰げば尊し”や“蛍の光”はとうに歌われない。
授業参観で題名は忘れたが12歳の合唱“ゆず”の曲が教室に響き、涙ぐむお母さんがいた。ちびっ子から少年への変化を目の当たりにして私もウルウル。もうすぐ卒業式、その佳き日、今どきの詩や曲が流れるだろう。
ところで12歳といえば、柴四朗は京都守護職となった会津藩主松平容保に従い、幕末の京にいた。五郎が12歳のときは戊辰戦争に敗れ、下北半島で餓えに苦しんでいた。そんな柴兄弟にとって卒業は?
写真:柴四朗のペンシルバニア大学創業証書(会津若松市立図書館蔵)1875(明治8年)柴五郎が陸軍幼年学校でフランス語で授業を受けている頃、四朗は横浜で書生をしながら英語を勉強していた。2年後、西南戦争がおこり西郷隆盛の軍と戦うため四朗は志願して九州に出征する。
風雲急を告げ戦いが始まると士官学校生徒は見習士官に任命され、校長に率いられて鹿児島に向かった。
その補充として選抜した幼年学校生徒を士官学校に繰り上げ入校させることになった。五郎はその入試に合格したが、卒業、入学式は行われただろうか。
西南出征中に四朗は知己を得、三菱、岩崎家の援助を得られることになりアメリカ留学した。まずはサンフランシスコに至り、商法学校に入学、2年で卒業する。
同じ年、五郎も士官学校を卒業、砲兵少尉となり大阪鎮台に赴任。以後、軍人として活躍、清廉潔白よき日本人として海外にまで名を馳せる。
四朗はサンフランシスコからマサチューセッツ州に移り、ケンブリッジのハーバード大学に入学する。が、一年足らずでやめてしまう。「当時の日本にとって必要な経済学を学ぶため」ペンシルバニア州に移りファイラデルフィア、ペンシルバニア大学に入学し学位を得て卒業する。
そして四朗が帰国した日本は政府が率先して西欧化を急いでいた。洋行帰りだが日本に強い愛情をもつ四朗、アメリカの政治、経済を観察し、世界の大勢をみた目には憂うべき現状と映る。このままでは西欧列強に呑み込まれ亡国すると『佳人之奇遇』を著して警告した。その後、ベストセラー作家、衆議院議員として活躍、名を残す。
柴兄弟にとって、学校は祖国に何を為すべきか考え、力をつける。卒業は行動への第一歩を踏み出す事のようのだ。
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