東北鎮台(軍団)
東北は古代、エゾの国とよばれ、中央の力が届きにくい道の奥にあった。白河の関を越えれば、はや“みちのく”である。その歴史と文化を知りたいとき『東北歴史紀行』(高橋富雄・岩波ジュニア新書)がいい道案内になりそう。
ただし今は、大震災、原発で東北はたいへん困難な状況に置かれている。少しでも早く日常がもどり、歴史の旅などできますように、祈るばかりだ。
ときに、陸奥、みちのくを東北というようになったのはいつからだろう。東奥もあるし、気になっていたら『宮城県の歴史』(山川出版社)に載っていた。以下、抜粋。
1871明治4年、廃藩置県後、仙台は明治政府の行財政上において東北の拠点になっていった。
そのころ政府は軍隊組織の確立を急ぎ東北・東京・大阪・鎮西(九州)の四鎮台を置いた。東北鎮台は伊達氏の仙台城二の丸に築かれた。公的機関に東北の名を冠したはじめで、その管轄地域に奥羽にかわる東北という新しい概念を定着させた。戊辰戦争以前には東北という語は、京都からみて東海・東山・北陸三道の地域であった。
東北鎮台には、現在の宮城・福島・岩手の三県から壮兵ととよばれる旧藩兵ら、歩兵一大隊を集めることになった。青森には東北鎮台分営がおかれ青森・秋田から募兵、山形は新潟と共に東京鎮台の管下にはいった。ちなみに徴兵令は1873明治6年公布。
その後、六鎮台制になり東北鎮台は仙台鎮台となり、現在の東北6県地域を統括する軍事機関となった。1884明治17年 新潟県編入、1888明治21年 仙台鎮台は第二師団となる。これから6年後の日清戦争、第二師団はどこに海外派兵されたのだろう。
写真:『北辺に生きる会津藩』(会津武家屋敷)p46仙台歩兵29連隊兵営内。
『宮城県の歴史』コラムより
1872明治5年、仙台城下の宿にいたフランス人宣教師ジャン=マランは、朝5時、フランスの行進曲を奏するラッパに驚いてとびおきた。見ると、フランス歩兵とまったく同じ服装の仙台鎮台の日本兵が600人ほど整然と行進していた。洋式軍隊、ラッパや鼓笛を演奏する楽隊は、すでに戊辰戦争のときからあった。
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