咸臨丸航海長・小野友五郎 (茨城県笠間)
東日本大震災の風評被害が起きている。原発事故区域から離れていても茨城県産野菜など“半値”という憂き目に。せめて一品でも多くと思うが計画停電もあり、生鮮品は直に食べる分しか買わず申し訳ない。有名な笠間焼も地震でたくさん壊れて散乱、さぞ無念だろう。せめて気持ちだけでも応援したく、被災各地の歴史的人物を順にとりあげる。
常陸国笠間藩士、小野友五郎は学問に秀で、とくに数学に強かった。ペリー来航時には『渡海新編』を著し、海防を厳しくと幕府に献策している。長崎に海軍伝習所ができると選ばれて航海術、洋算を学び、幕末動乱期にあって最先端の学術を身につけたのである。
海軍伝習所といえば、第二次団長カッテンディーケの『長崎海軍伝習所の日々』がよく読まれ、勝海舟ら伝習生のエピソードなど面白い。しかし彼らと友五郎はすれ違いで彼が学んだのは、第一次伝習所団長ベルス・ライケンからであった(藤井哲博『長崎海軍伝習所』)。
友五郎は出島にライケンを訪ねて西洋式の微分・積分・力学などの特別講義を受けた。これが西洋の数学を学んだはじめで、友五郎は「和算家最後の人で、西洋数学を最初に学んだ人」である。どちらにも優れた稀な才能の持ち主であった。
*和算:日本古来の数学。円周率、定積分など扱う円理ほか非常に高い水準で、江戸時代、関孝和の関流は特に盛んであった。
*洋算:和算にたいして幕末に西洋から伝来した数学につけた名称。
万延元年、友五郎は航海士として勝海舟艦長・咸臨丸で渡米、福沢諭吉も同船していた。( 写真、近代デジタルライブラリー)
『小野友五郎の生涯』(藤井哲博)によると、友五郎は麟太郎や諭吉を見る目がシビアだ。“歴史上の人物同士、同時代人としての目、好悪の感情”を知ると興味深く、人間性が垣間見える。
幕府が倒れて後も友五郎は新政府・工部省に出仕し、東京・横浜間の鉄道測量にあたった(『民間学事典』三省堂)。
友五郎はいつの時代にも必要とされよく仕事をしたが、人として幸せだったか? 『怒濤逆巻くも』を読み考えさせられた。あらましを2009.7.23ブログより再録。
『怒濤逆巻くも』幕末の数学者 小野友五郎(鳴海風著 新人物往来社)
数学好きですか? 私はさっぱり。まして数学者など敬遠ですが小野友五郎の名にひかれて読みました。NHK[プロジェクトX]は、逆境を智恵と勇気で切り開く人々を紹介して人気でした。友五郎の生き方はそれを思い起こさせます。
若き友五郎は黒船が押し寄せ開国への道を歩む日本のため、小栗上野介、ジョン万次郎、長崎海軍伝習所卒業生らと働きます。高い数学力はオランダやアメリカの新知識吸収を容易にし、得た技術を実地にいかし成果をあげます。実務で身分の階段をかけ上り、笠間藩の下級武士から幕臣になりました。
日本人初の太平洋横断を成功させた咸臨丸(艦長・勝海舟)に友五郎は航海士として乗船、福沢諭吉も軍艦奉行の従者として同船していました。勝と福沢には良いイメージが一般的ですが、友五郎が二人を見る目は厳しい。それは航海中の体験、または実務家の目からでしょうか。
のちに友五郎は咸臨丸艦長となり小笠原諸島回収のため小笠原調査に赴きます。かと思えば再び渡米、南北戦争後のアメリカで軍艦の買い付けをします。その間にも蒸気軍艦の国産、製鉄所(後の横須賀造船所)設立など忙しく、家庭をかえりみる暇がありません。妻が心を病み友五郎は仕事を休みます。 が、遅かった。
妻は自ら命をたち、さびしく悔いの残る日々を過ごします。しかし時代は彼を必要とし、仕事に戻った友五郎は昇進を続け、再婚もします。
開港した日本、その変化は留まるところをしりません。ついに時代は暗転、江戸幕府は倒れ明治維新となります。新政府はいったんは友五郎を罰しますが、その能力を必要として官に招きます。友五郎は海軍への出仕を断り、鉄道建設に測量技術を役立てました。
明治の世。友五郎は道を開いてくれた恩人、小栗上野介が殺された水沼河原を訪れました。そこにはもの悲しい風が吹き、国を憂え身を惜しまず働いた小栗の悲惨な死を悼むかのようでした。たたずむ友五郎の声にならない詠嘆が胸に迫ります。あなたも小野友五郎とともに時代の波をかぶり波濤を越えてみませんか。(2003年記)
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