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2011年4月13日 (水)

釜石鉄山の基礎を築いた、大島高任(岩手県)

   1871(明治4)年11月12日 岩倉使節団一行46名が横浜港を出発。使節団派遣の目的は外交儀礼、欧米諸国の制度・文物の見聞、条約改正の予備交渉であった。船には最初の女子留学生、津田うめら5少女の姿もあった。ちなみに使節団は後発組、現地からの新島襄などメンバーは一定ではない。さて岩倉具視(47歳)以下メンバーの誰をとっても興味が尽きないが、ここでは造船頭随行鉱山助・大島高任(おおしまたかとう)を見てみる。

 使節団一行は12月6日サンフランシスコ着。大島高任(46)は瓜生震(19)とともにニューアルマタンへ向かい鉱山視察をした。以後、各地の鉱山・鉱山学校・機械製作所を視察。
 帰国後、各鉱山局長や大蔵技官を歴任、近代鉱山業の発展に貢献し釜石鉄山の基礎を築いた。日本鉱業会初代会長(文政9~明治34年1826~1901)。

    “近代製鉄業・鉱山と大島高任”
 幕末、ペリーら黒船来航で海防問題が緊急性を帯びてきた。とくに水戸藩は大砲の鋳造を計画、大島・盛岡藩、竹下・薩摩藩、熊田・三春藩の3人を招請した。3人は日本の近代化を推進しようと藩の垣根をこえて協力、「強烈なる火力を以て銑鉄を溶解し鉄製の大砲を鋳造すべき機械」である反射炉を那珂湊に完成した。

Photo  大島高任によるわが国最初の溶鉱炉は、大槌通甲子村(釜石市)を流れる甲子川上流に大橋高炉が建設された。安政4年12月1日、溶鉱炉がはじめて銑鉄を生産したこの日、12月1日は「鉄の記念日」となっている。

 翌年、橋野高炉さらに慶応元年までのあいだに計10基の溶鉱炉が建設され、年間3750トンの銑鉄の生産が計画された。このうち4基は大島、他は大島の門人による。

 大島は釜石鉄山十輪田銀山小坂銀山阿仁銅山など各鉱山の近代化につとめたが、外国人技師の設計や計画は多くの場合不適当だったから、各鉱山の運営は困難をきわめ、大島はその修正、改良に奮闘した。
 その後、大蔵省支配下の佐渡・生野の鉱山を指導し、佐渡金山の技術の発展に力を尽くした。
 画像:国立公文書館アジア歴史センターより Photo_14  


    “大島の人となり”
 大島高任は盛岡藩(旧南部藩)蘭方医の家に生まれ、17歳から23歳まで江戸と長崎に留学。医術よりも砲術・採鉱冶金などを修め、蘭学を学んだ。
 大島高任を招聘した水戸藩は直接藩士に召し抱えようとした。しかし大島は
「自分の家は200年来南部藩に仕えており、厚恩を受け江戸・長崎に留学する機会さえ与えられた。このご恩に報いたい」と謝絶した。義に厚い人物である。
 大島は釜石で仕事をしながら、東北の片田舎での仕事がそのまま日本の仕事につながると自覚していたのである。果たして、彼は明治と世が変わっても日本の近代化にに力を尽くし、後進を育て指導した。

参考:特命全権大使『米欧回覧実記』岩波文庫、『岩手県の歴史』山川出版社、『世界大百科事典』平凡社。

 東日本大震災は釜石にも地震と津波で大きな災害をもたらした。その惨状は目を覆うばかりで言葉もない。どうか、少しでも早い日に日常が戻り、鉄の記念日を無事に祝えるようにと祈るばかり。

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