大正デモクラシーに理論を与えた人、吉野作造(宮城県)
吉野作造といえば民本主義でよく知られる。宮城県古河町(現大崎市)生まれ(明治11~昭和8年1878~1933)。仙台の学校をへて東京帝国大学、さらに大学院に進んだ。
写真:『世界大百科事典』より
日露戦争後1906明治39年、東大を卒業すると中国・天津に赴き、袁世凱の子ども袁克定の家庭教師となり3年間教えた。
帰国後、東大助教授になり翌年から欧米に4年ほど留学し帰国後、教授に就任した。
1916大正5年、中央公論に
<県政の本義を説いて其有終の美を済すの途を論ず>を発表。政策決定に一般民衆の意向を反映させる民本主義を提唱、デモクラシー運動に理論的支柱を与える。
1923大正12年関東大地震がおこった。山本内閣は復興計画推進のため帝都復興院を設置、後藤新平(岩手県)を総裁に任命した。
後藤は壮大な復興計画をたて積極的に進めようとしたが枢密院などの反対にあう。ともあれ関東大震災は丸の内ビル街、郊外の住宅地など発展し、首都東京の様相を一変させた。
大地震後に軍国主義が後退、民衆の解放を求める動きがあり、政府は言論の弾圧を強めた。またデマにより朝鮮人虐殺事件が続発した。
吉野作蔵は朝鮮人虐殺事件に取り組み、被害者の人数を地域別に表示し、官憲・軍隊の責任を追及する文章を『大正大震火災誌』(改造社)に寄稿した。しかし内務省の検閲により公表を禁止された。
その後東大教授を辞めた吉野は朝日新聞に入社した。しかし筆禍事件あってほどなく退職、明治の思想・政治・文化の研究に入り<明治文化研究会>を作った。明治維新から半世紀以上が経過、古老の逝去、関東大震災などによる資料の隠滅などの危機を感じた学者、研究者らが集まった。研究会の『明治文化全集』(全24巻)は今なお明治を知るうえで欠かせない資料集である。
なお、吉野の政治理論は民主主義を日本の土壌に育てる上で大きな役割を果たしたが、当時の権力による制約からも十分に徹底せず、社会主義理論においても妥協的な立場を多く残している。
ちなみに吉野は『支那革命小史』(大正6年東洋文庫)を刊行している。それは頭山満らに依頼されて執筆したものだという。
右翼巨頭の頭山と民主主義思想の吉野、結びつきにくいが、日本国のためという目的が共通なら組合せはいろいろあったかも。この縁からも異論を断ち切ることが出来なかったのではないか。
現在、日本は東北関東(東日本)大震災により未曾有の困難に陥っている。このようなとき支柱となるべき人物の登場が待たれる。其は何処に?
参考:『明治の兄弟 柴太一郎、東海散士柴四朗、柴五郎』(中井けやき)・『世界大百科事典』(平凡社)・『近現代史用語事典』(安岡昭男編)
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