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2011年5月21日 (土)

幕末の大阪で塾を開いた漢学者、岡鹿門(仙台藩)

 歴史好きは戦国時代か幕末が好きという人が多いように思う。時代の変動とエネルギーが感じられるからだろうか。自分も若い頃は戦国武将が好きだったが、今は幕末明治以降の有名無名の群像が好きだ。
 近代は古文書が読めなくても当時の雑誌や新聞、資料をかなり読むことができる。自分は図書館を利用しているが、とくに明治期の書籍がならぶ書庫に入れる早稲田大学の図書館が好きだ。

 早稲田という場所も、けやきのブログ2010.2.8「英語塾と山東一郎(直砥)」でとりあげた北門義塾があったと知り縁を感じる。
 東海散士の縁から山東一郎を知り興味を抱いたが、今度は山東から松本奎堂と岡鹿門を知った。二人のうち松本奎堂は「天誅組」で有名、東北に目を向けている折から、岡鹿門を記してみたい。

 鹿門はロクモンと読み、名は千仭。父は仙台藩大番士。1832~1913(天保3~大正2)
 江戸昌平黌で学び同窓の松本奎堂、それに松林飯山と岡の3人で大阪に双松岡という塾を開いた。双松岡塾ではさかんに尊攘論を説き、清川八郎ら志士が出入りしていた。
 そこに山東一郎が学僕として入塾したのである。のちに山東が早稲田に北門義塾を開くと、岡は英語授業を参観に行ったこともある。かつて自分が教えた坊主頭の少年が、塾を開き人を教えているのを見学、感慨深いものがあっただろう。

 岡は大阪はもとより京都などあちこち遊学していたが、金がなくなると地方へ行き、漢詩などを書いて報酬を得たりした。双松岡塾を開くときも仲間より多く出資している。
 やがて藩命により帰国、戊辰戦争を迎える。いよいよ会津藩が追い詰められ東北諸藩は同盟するのだが、岡は奥羽列藩同盟に反対して投獄された。尊攘論を唱える岡にしてみれば当然の意見だが、生きるか死ぬかの戦を前にして大勢に反対するには勇気がいっただろう。

 明治になって岡は大学教授、東京図書館長などを歴任。1884明治17年には中国を遊覧、李鴻章と中国改革を論じるなどして旅行記を著した。他に著作、翻訳あり。

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コメント

この場をお借り致しまして、私、千仭甥曾孫です真様! 
直言して冷遇される血は、父も私も受け継いだのかしらん? 
私の前職の化学工場に清水を引いている、
「清左衛門の池」に、
ひいひいじいちゃん弟千仭様の石碑がありますよ。 
この暮れに私どもの台北新婚旅行なので、
「向こうにお弟子さんでもおらんかな~?」と、
こちらのサイトに辿り着きました。
真様! ご挨拶に上がりとうございます。

投稿: 片山 泰 | 2019年12月11日 (水) 22時26分

京都在住の吉本です。私も岡鹿門でヒットして ここに来ました。
私の研究対象は松林飯山を中心に、松本奎堂、岡鹿門、河野鉄兜、橋本香坡、山東直砥、伴林光平です。岡鹿門の「在憶話記」、「雪泥鴻爪」のほか、岡鹿門のことも詳しく書いてある森銑三の「松本奎堂」、宇野量介の「鹿門岡千仞の生涯」を最近読みました。岡鹿門は長生きして多くの立派な著作物を残してくれました。岡鹿門の子孫の方々も本の発行、所蔵本の保存、図書館への寄贈など後世のために貢献されました。そのお陰で今の我々は幕末のことを知ることができるわけで、ありがたいことです。
それに中井けやき様のこのブログで、岡 真さまが鹿門岡千仞の曾孫であられること、門田江平さまが橋本香坡のことにお詳しいことを知ることができ、大いに得るところが
ありました。今後とも よろしくお願いいたます。

投稿: 吉本信之 | 2012年9月18日 (火) 15時35分

岡鹿門でヒットしたので、興味深く拝読しました。
瑣末なことで誠に恐縮ですが、「やがて藩名により帰国、戊辰戦争を迎える。」の「藩名」(藩の名前)は、「藩命」(藩主または藩の命令)の誤植かと思われますが、いかがでしょうか。私は鹿門岡千仭の曾孫に当たり、ウェブを含め、鹿門関連情報をときどき参照しております。
今後共、どうぞよろしくお願い致します。

投稿: 岡  真 | 2012年9月11日 (火) 17時26分

中井けやき様
大阪在住の門田と申します。岡鹿門でたまたまヒットし、ブログを拝見しました。
幕末の大坂では、双松岡塾の松松岡トリオの他、橋本香坡、藤井藍田ら、私塾主宰者らが勤皇のうねりに巻き込まれて行きました。奎堂は天誅組事件で亡くなり、飯山は大村藩の佐幕派に暗殺され、藍田は新選組の拷問で、香坡は同じく新選組に捕えられ獄死。鹿門ひとりが明治まで生き残り、尾崎紅葉や北村透谷に漢学を教えたとのこと。
橋本香坡の兄弟弟子には白洲次郎の祖父白洲退蔵がいました。また、香坡の弟子蓮沼東湾は、やはり新選組に追われたそうですが、明治まで生き残り、後に幣原坦、喜重郎兄弟が幼いころ勉強を習いに来ていたとのこと。
さらに、東湾の息子の蓮沼霊与が東京高等師範在学時に中学生だった鳩山一郎の勉強をみていたらしいこと(この件は裏がまだ取れていませんが)、東湾の孫の蓮沼文範が幣原内閣の安倍能成文相(漱石の弟子)と親しかったこと等、現在とのつながりも想起しながら幕末の群像を見ると、ドラマ以上のドラマの香りがしてきます。
早大図書館の件、大学院生でなければ書庫に入れなかったこと、畳半畳ぐらいの本があったことなど、中井様のブログで懐かしい記憶が蘇ってきました。
ブログ全体を拝見させていただきます。

投稿: 門田江平 | 2012年5月27日 (日) 12時37分

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