朝鮮の土となろうとした明治の歌人、鮎貝槐園(宮城県気仙沼市)
鮎貝槐園あゆかいかいえん 1864元治1~~1946昭和21。名は房之進。父は伊達家の重臣、兄は歌人で国文学者として知られる落合直文である。
母校の法政大学の隣りに逓信病院がありその脇道、坂を少し上がると「与謝野鉄幹・晶子夫妻の住居跡」の碑がある。東海散士・柴四朗を調べ中、思いがけないところ(閔妃事件)で与謝野鉄幹との関わりを知った。以来、鉄幹が『明星』、晶子の夫というだけでないと分かった。そして鉄幹を朝鮮に引き寄せた鮎貝槐園に興味を抱いた。3人の関わりは以下参照。
1894明治27年、槐園は事業家的才腕があり朝鮮の京城に五つの小学校を創設。日本語教師として京城の乙未義塾(国策的学塾)に鉄幹を招いた。
当時、朝鮮では大院君と閔氏一族が対立していて、ショッキングな事件が続発し暗黒政治のような時代が続ていた。その朝鮮・全羅道で東学党が蜂起した。
アジアの中でいち早く近代化を達成した日本には
「欧米列強の侵略からアジアの保全と解放をはかるため、日本がアジアの盟主となるべき」という考えがあった。頭山満の玄洋社、内田良平の黒龍会など大陸各地でそれを実践しようとした。玄洋社は天佑侠を組織、釜山の法律事務所を拠点に東学党を支援した。そのころ釜山には日本浪人がかなりたむろしていた。
与謝野鉄幹、天祐侠に一首、
いなづまの、光も見えて、一むらの、横ぎる雲に、雷なりわたる
過激な天祐侠人の中には、日清両国の関係が風雲急を告げるとき、政府が日清戦争を始めないならば、自力で朝鮮を侵攻しようと期していた壮士もかなりいたらしい。ずいぶん無茶な話である。彼らは後に乙未事件(閔妃謀殺)に直接かかわる。
( 『明治の兄弟 柴太一郎、東海散士柴四朗、柴五郎』朝鮮東学党の乱(甲午農民戦争)より抜粋)
槐園は、はじめ宮城師範学校で学んだが教師にならず、東京外国語学校で朝鮮語を学んだ。当時、清国やロシアとの関係で朝鮮半島の風雲がけわしかった。この時期、大望を抱いて朝鮮に渡る者がかなりいた。槐園もはじめはそのようだったが
「日本古代文化に大きな影響を与えた古代朝鮮の文化を研究する」という学究としての目的があった。槐園は鉄幹を呼び寄せた乙未義塾を解散後、政治的事業から身を引いて朝鮮文化研究に献身、文化財保護、研究論文など高く評価された。
槐園の妻は、若いころ伊藤博文に可愛がられたが、ついにその意に従わなかった芸者として知られる岡島たき子である。
槐園夫妻は朝鮮の土となる覚悟であったが、韓国独立後、老いの身を帰還船に乗せられ九州博多港に上陸した。すでに病の身であった82歳の槐園は福岡市の引揚者収容病院で息をひきとった。夫人は亡夫の遺骨を抱いて宮城県気仙沼の鮎貝家まで辿りついたが、そのまま病床についた。その年、槐園の後を追うように69歳の生涯を閉じた。
(参考:明治文学全集『与謝野鉄幹・与謝野晶子集』附明星派文学集)
蛇足ながら、現在の日本は韓流ブームというより韓流は定着した感がある。槐園や朝鮮を愛した柳宗悦が、文字通り近い国となった日韓をみたらどんな感慨を抱くだろう。
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