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2011年6月24日 (金)

下北半島、広澤安任(青森/福島)

 1872明治5年に広澤安任という会津人が下北半島の谷地頭(三沢市)に洋式牧場を開いた。それから140年、下北半島は明治の開墾の苦難よりももっと過酷な現実に直面している。3.11大震災が私たちに無力感と恐れをもたらしたのだ。
 下北半島、一度行った事があるが、その時は風力発電のプロペラしか印象になく(当ブログ・2010.12.5“道の駅みさわ斗南藩記念観光村”)、原子力施設が密集していると気づかなかった。福島の原発事故からそうと知った。

 広澤安任は元会津藩士で、藩主松平容保京都守護職となり公用方が設置されると秋月悌次郎柴太一郎らと共に任じられた。この公用方はやがて藩の直面する諸問題に深く関わり、京都における藩の実権を握っていった。
 ある時は高崎猪太郎井上弥八郎薩摩藩士と密議、
「武力で長州藩士を京都から追放する態勢をとったうえで、一気に攘夷派公卿の一掃」をはかった。世に言う1863文久3年「八月十八日の政変」である。
 しかし坂本龍馬の斡旋により薩摩と長州が手を結び、会津は追い落とされ、戊辰戦争に敗れた。時代は明治へと転換、藩主以下江戸を去り会津に帰っても、広沢は江戸に残り単身で新政府軍・総督府に乗り込み、
「諸外国が虎視眈々と日本の隙をねらっている。なのに兄弟垣にせめぐ戦いをしている場合か」と兵をおさめるように訴えて、捕らえられ斬罪がきまった。しかし幕末の京で活躍した広澤は交際が広かったから、イギリス公使パークスの下で働いていたアーネスト・サトウ木戸孝允に口添え、宣教師フルベッキから西郷に忠告の使者があったりして、斬罪を免れ監禁となった。獄中の生活は死にまさるほどだったが、命拾いをした。

 かつて広沢は幕府とロシアの国際談判に随員として同行したことがあり、その往復中に
陸奥の国は広大にして開発の望みあり」と考えた。しかし移住後の生活はあまりにも困難で、そのうえ廃藩置県となり藩主、重役ら、また山川浩までもがこの地を去った。しかし広沢は残留した。斗南人の生計の道を開こうと、現在の三沢市小河原沼の東に酪農主義農場の開拓をはじめたのである。
 1872明治5年、広沢牧場を開業し五ヵ年計画で事業を推進することになった。広澤は新政府に知人が多かったので開墾資金を借入れるのに役立った。

 1876明治9年、明治天皇東北巡幸のおり、広澤は内務卿・大久保利通から「中央で仕事を、東京へ」と誘われたが
「一個の百姓として生きる。農はこれ天下の大事」と、東北の荒野に奮闘、研究と経営に努力した。生活ぶりは質素で、勝海舟から贈られた「牧草堂」の額をかかげ牧老人と名乗って粗衣粗食に甘んじた。

 参考: 『北辺に生きる会津藩』会津武家屋敷文化財管理室・『偉人事跡』明治41年福島県・『明治の兄弟 柴太一郎、東海散士柴四朗、柴五郎』

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