六分の侠気四分の熱、与謝野鉄幹・晶子
与謝野鉄幹というと妻晶子、詩人として、歌人として、明治ロマン主義の中心『明星』というイメージだ。でも、初期の鉄幹はまったく別人のようで歴史好きにはおもしろい。
1893明治26年、新聞「二六新報」が創刊された。創立者の秋山定輔は朝鮮問題、日清開戦に国家主義的対外強硬の論陣をはった。主筆の鈴木天眼と相識の柴四朗は編集同人となる。この二六新報には与謝野寛(鉄幹)が創立時から在社していた。当時の鉄幹は旧派の短歌を痛烈に批判するなど注目の青年であった。
日清(日中)関係が緊迫すると「二六」の天眼は天佑侠に加わった。朝鮮は地理的運命から勢力の衝突点にあたり、日清戦争を朝鮮の独立確保のためとして朝鮮に渡る士族や対外硬派そして侠客らがいた。天佑侠もその一で、鉄幹が一首
いなづまの、光も見えて、一むらの、横ぎる雲に、雷なりわたる
1895明治28年春、槐園に乙未義塾の教師として招かれた鉄幹、開校のはじめに一首、
から山に、桜を植ゑて、から人に、やまと男子の、歌うたはせむ
この年、鉄幹は朝鮮で閔妃事件に関与、他の関係者と共に日本に護送された。広島で簡単な取調べを受け、釈放された。
韓にして、いかでか死なむ、われ死なば、をのこの歌ぞ、また廃れなむ
鉄幹は朝鮮改革に関心があり、ふたたび朝鮮に赴き国事に奔走した。次は三たび朝鮮京城に渡った1897明治30年「人を恋ふる歌」の一節である。
妻をめとらば才たけて 顔うるはしくなさけある
友をえららば書を読んで 六分の侠気四分の熱
しかし志は果たせず、また後年になって当時の行動を悔やんだという。
この後は師の落合直文の忠告をうけて、丈夫(ますらお)から歌人の道を歩みだし晶子と運命的な出会いをする。そして作風は一変する。
われ男(お)の子 意気の子 名の子 剣の子 詩の子 恋の子 ああもだえの子
名を惜しむ男子の気概と、恋にひかれる本能とがもつれあったこの歌は、百年たった今も愛唱されている。
日露戦争中、与謝野晶子は旅順口包囲軍中にある弟を思い、
君死にたまうことなかれ、旅順の城はおつるとも、おちざるとてもなにごとも
発表すると、非国民的詩などと大町桂月に罵倒された。晶子が反論したがおさまらず鉄幹は、弁護士と共に桂月のもとを訪れ、直接談合したことで、晶子非難は終わる。家の事は何もしない鉄幹だったようだが、妻を守るべき時は男らしい。
1915大正4年、総選挙が実施された。大隈重信主導型で行われた選挙は与党が圧勝、原敬の政友会は第二党に転落した。この選挙に京都府から与謝野寛は無所属で出馬、妻晶子が応援にかけつけたが落選した。
参考:『明治の兄弟 柴太一郎、東海散士柴四朗、柴五郎』(中井けやき) 『明治文学全集 与謝野鉄幹・与謝野晶子集』(筑摩書房)
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