明治苦学生の勉強ぶり、首藤隆三(宮城県)
前回に引き続き内ヶ崎教授「早稲田校史の一挿話」(早稲田学報)から、北門義塾出身者談を記す。
首藤隆三は1869明治2年、日本橋で開業医の薬局生を務めていた。明治天皇が京都より江戸の千代田城へ行幸となり、この行列を拝したいと医者に許可を求めた。
しかし医者は不機嫌に
「お前のような朝敵(仙台藩出身)は生意気だ」と叱りつけた。首藤は不服で、早速荷物を纏めて家出して行列を拝んだ。行列は拝んだものの行く所が無くなり途方に暮れていると、塀に「早稲田北門社新塾 力役生募集」の張り紙があった。日本橋から早稲田まで、見物で疲れた足を引きずって行き、入塾する事ができた。
授業は英語、漢文、数などであった。力役生(苦学生)の仕事は、元大名屋敷だった広くて長い廊下を毎日雑巾がけすることだった。学生の大半は貧乏書生で、夏は蚊帳なし、冬に綿入れや袷もない。それどころか布団もないから、浴衣を重ね着して陽当たりの良い庭で昼寝して、夜は徹夜で勉強した。
首藤は1年半ほどで助教となり、3年で卒業すると1872明治5年、新潟の英語学校長として招かれた。この時、新潟県からの旅費を送別会、祝賀会で大半は飲んでしまった。
金が残り少なく身なりも整えられず新潟の旅館に着くと、行灯部屋のような所に案内された。県庁に着任届けを出すと、烏帽子直垂、又は麻裃にて出頭すべしと返事が来た。
宿に頼んで麻裃を借りて県庁にいくと役人がクスクス笑った。裃は女義太夫の着古しだったのだ。首藤は
「そんな事は屁とも思わず」辞令をもらって行灯部屋に戻った。宿の主人が首尾はどうかと聞くので、辞令を見せると顔色を変えて平身低頭してズリ下がり、縁側から落ちる騒ぎになった。
県令から5番目の月給取りというので、女中を呼んで2階の松の室に案内、打って変わっての待遇となった。
のち、首藤隆三は改進党の熱心な党員として宮城県改進党の中心人物となり、大隈重信の信任を得、高田早苗とも親交があったという。
明治初期の苦学生、今では信じられないほどの貧しさと向学心である。それでもお金が入ればみんなで飲んでしまう。目先の金より、同士や友人、何と言っても志が大切だったよう。
それにしても明治天皇の行列をクビになっても見たい。そんな人物をはじめて知った。今はテレビが何でも映し出し情報が氾濫している。昔はそこに行かなければ絶対見られない。カメラを通して見る、生で見る、どっちがいいだろう。
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