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2011年7月 7日 (木)

北門義塾創立者・柳田藤吉(岩手県/北海道)

   山東直砥に興味を抱いて調べている。参考:当ブログ過去記事/2010.2.8<英語塾と山東一郎(直砥)>
 その縁で、岩手県南部出身の柳田藤吉に出会った。赤貧洗うがごとしの境遇から、功なり名を遂げ、幕末明治の動乱を元気に生き抜いた。北海道出身の代議士となっても丸くならず異彩を放っていたらしい。明治の書物にちらほらでているが、面白可笑しく紹介されている。筆者はそれらを丸呑みしていたが、「半峰昔話」をヒントに『早稲田学報』を探したら、こちらの方が事実に近そうというのがあった。
 早稲田大学・内ヶ崎教授が北海道根室で柳田藤吉の孫養子にあって聞いた話を記述している。ちなみに『内ヶ崎作三郎の足跡をたどる』小野寺宏編著)には出ていない。


     大正15年9月10日発行「早稲田校史の一挿話」教授・内ヶ崎作三郎

 藤吉は1837天保8年12月 盛岡市七日町に生まれる。父・藤沢嘉兵衛の次男、幼名を徳助。12歳で商家に奉公に出された。まもなく黒船が来航して攘夷論と開国論が火花を散らして騒然となった。これをチャンスと捉えた17歳の徳助は奉公先を飛び出し、辛酸をなめるも江戸に着いた。

次は大阪、長崎にも行き、ペリーが再び来航したころ便船があり函館に赴いた。
 函館では柳家次郎右衛門の店で働き、やがて柳家の支店を与えられ柳田と改称、さらに藤吉と改名した。藤吉は幕府がペリーに下田・函館を開港すると約束したので長崎より函館を選んだのである。

 24歳の藤吉はイギリス船から大豆一千石の買い入れを頼まれ巨利を得た。さらに清国人に昆布一千石を売ったかと思うと、次は塩鮭を外国船を雇って東京に輸送した。

 戊辰戦争が始まると、庄内藩の北海道駐屯700名の藩士を自ら監督して酒田港まで送り届けた。また秋田藩のために武器買い入れに奔走した。
 かと思うと、政府太政官の命によりアメリカの汽船を雇い入れて横浜から青森方面に運送し、官軍の軍艦に供給した。

 融通自在の大活躍で、朝敵の藩にも政府にも御用商人となって財をなした。しかしさすがに心やすからずの心境となって、賊軍から設けた金を社会公益に費やしたいと福沢諭吉箕作麟祥に相談した。学校を起こす事が急務と教えられ利益4万8千両を提供した。
 学校はこの事業に賛成の三井家所有(元讃州高松藩下屋敷)の立派な建物が提供され、山東一郎が学校を管理する事になった。
 1869明治2年、北門社新塾として生徒を募集した。応募者が多いので、松本良順を迎え、山東と共同管理させた。

 塾の出身者には陸軍大将・福島安正、海軍中将・肝付兼行宮城県代議士・首藤隆三らがいるが、首藤の回顧談も興味深いので後日紹介したい。
 参考:過去記事/2009.9.13<カルチャーおばさんも福島安正も窓側>

 

 

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