大正5年の東北学事視察、内ヶ崎作三郎・高杉瀧蔵
明治期の新聞・雑誌を見るのは楽しいが、目当ての記事に行き着くには手間がかかる。地道にページを繰っていくしかないが得るものもある。『早稲田學報263号』1917年を見ていて「東北3県~」が目に入った。100年近く昔の東北の学校を視察した早稲田大学英文学教授二人の報告である。夜行列車に乗り翌早朝仙台着とあるから東北は遠かった。
巻頭は「大正六年の初頭に立て教育を思ふ」大隈“総長”であるが、学事視察の時期は大隈重信が総理大臣、高田早苗が文部大臣の時期だった。記事のおおよそと長くなるが人名を残らず記す。3・11被災地の方々の縁につながる人名があるかも知れないと。
<東北三県学事視察報告>
内ヶ崎作三郎(宮城県黒川郡)
1916大正5年4月5日夜9時上野発6日早暁仙台着。県立第一中学校(校長・宗像逸郎)。校長は講道館の先覚者でもある。ちなみに高等師範学校・初代校長は会津の山川浩、東京高等師範の校長は嘉納治五郎。
さて、美禰教頭と綿引政親、長阪正辰の英語授業、校長の修身、大泉重蔵の科学を参観。午後、雨天体操場で全校生に講演。伊沢平左衛門(早稲田・高橋清吾の親戚)と会う。
4月7日、県立第二中学校(渡邊文敏)。朝比奈茂の英語授業を参観、午後は東北学院普通部を訪問、田中四郎らに近況を聞く。アメリカ人で仙台在住20年のゲルハルトの授業を参観、夜、出村悌二郎教授らと会食。
4月8日、東北中学校の始業式。五十嵐校長式辞の後、私学の意義を説いて全校生徒を激励。同校の短艇部は全国的に、婦人教師亀田よね子は数学もって知られている。
第二高等学校(武藤虎太)は母校で恩師の粟野、玉虫、杉谷、登張、土井諸教授とストーブを囲んで談笑した。夜は郷里の冨谷に泊まる。
4月10日、仙台。久保熊治、松山秀美、日野忠吾、岩野軍治ほか校友と会い盛岡へ。盛岡駅の待合室、ストーブが盛んに燃えていた。
盛岡中学校(前川亀次郎)。米原弘教頭、橘川、尾形、久水、小西教諭らの授業参観、午後は友人の島地雷夢の墓参り。校友の日戸、菅原、教諭ら7人で会食後、盛岡から尻内駅、乗換えて八戸町に向かった。
4月11日、八戸中学校(栗原英之助)。英語授業を参観、午後は講堂で約2時間心ゆくばかり語った。東善平教頭、山口繁安、小宮、堀の教諭らと会食、浅虫温泉に向かう。
4月12日、青森中学校(岩崎雄吉)。英語と修身を参観し、昼食後、明田三太教諭と面会。その後、弘前に向かいプラットホームで小浜松次郎・青森県知事と邂逅、旅行の目的を告げる。宿にて校友浪打、加藤、奈良坂教諭らと会食。
4月13日、弘前中学校(粟野傳之)。校長は同郷人で20年ぶりに再会、その案内で各クラスを参観。英語教師の一人アメリカの老婦人はメソジスト派の女学校校長で、英語を教えに来てい、弘前中からは数学の教師が女学校に行っている。ここでも講演する。
次に女学校に赴き授業参観、100名の女生徒に「婦人の使命」について講演。ついで物産陳列館、メソジスト教会前の本田庸一記念碑を見た。その夕は女学校の米国婦人達の晩餐会に招かれ翌日、弘前にから帰京した。
<学事視察報告>
高杉瀧蔵(青森県弘前)
10月19日、福島県郡山に赴く。和久屋旅館で菊池仲之介、松井清作教諭らと宿泊。
10月20日、安積中学校(校長・川上)。英語教諭河野主任、星合次席、田村六郎、菊池、松井らの授業を視察。午後、講堂で英語演説を行った。上級生はおおむね、下級生もほぼ聞き取り得たようで満足した。英作文の教科書が乏しい、実力を養成できる方法をなど切望された。夜、福島に向かう。
10月21日、福島中学校(長岡恒喜)。芦澤領助主任、内村巌(青山学院での教え子)、斉藤多三郎の英語授業を参観。授業の後、宿で懇談したかったが、「東北六県共進会」に出席する閑院宮夫妻がホテルに宿泊するためできず、山形県米沢に向かった。ちなみに「共進会」は明治の殖産興業政策の一つ、博覧会とともに各地で開催された。
10月22日、日曜で学校は休み、教会で米沢中学教師の佐藤信純に会い、二人で英語主任・藤本豹太郎を訪ねた。地方に視察に来る者もなく疑問をぶつけられない事や英書、発音など英語に関する話をした。
10月23日、米沢中学校にて5名の英語教師の授業を参観。午後、高等工業学校と県立工業学校に行ったが英語の授業がなかった。
10月24日、東北共進会が開かれ中学の授業がなく師範学校に赴いた。しかし堀口亀重教諭から英語の授業はないと聞かされた。師範学校で英語は必修科目ではなく、教師も一人だった。その夜、大館に向かう。
10月25日、秋田中学校(名和長正)。大沢千亀主任、本郷良治、高橋武四郎、泉茂家の英語授業を参観、意見を述べ質問に答えた。その夜は故郷の弘前に泊まる。
弘前では高等女学校および中学校を視察、浪打義也教諭ほかの英語授業を参観後、日本語と英語の演説をした。翌日は仙台に一泊、28日帰京した。報告の終わりは
・・・将来日本帝国および世界的に活動する人物を養成するため中等教育に従事するものの責任大なるを以て、最も之に適当なる教師を養成するの必要を感じ、予輩も益々努力奮闘(以下略)。
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