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2011年7月30日 (土)

広報「新地」(福島県相馬郡)

 早稲田オーブンカレッジ「日本近代史」の前期最終日。東日本大震災に襲われた受講生が相馬から鉄道の代替えバスを乗り継いで仙台へ、そして上京、出席した。当ブログ2011.3.29“ひびけ天高く/鈴木正夫”の目黒氏である。
Photo  「広報しんち」7月号を持参、大館村に隣接する新地町(人口8,172人)の現状を話してくださった。惨状を聞くにつけ胸が痛く、無残な話に無力感に襲われるが、被災地の方々は感慨にふけっている暇はない。立ち上がらなければならないのだ。せめて頂いた広報誌の一部なりとも紹介して、復興へ歩み出した町の人を身近に思いたい。

 p2: 岐路に立ち復興へ歩みだす(写真:一面瓦礫の原、向こうに海)
 3月11日金曜日14時46分/三陸沖を震源とするマグニチュード9.0 震度6強の地震が新地町を襲った/~~気温4.7℃ 西南西の風/けたたましいサイレン音が町中に鳴り響く/~~15時40分 大津波が町をのみ込んだ

p5~13(各ページ左端): 震災から100日の記録
p6: 掲載写真:壊滅的な被害をうけた亘理線・常磐線新地駅や国道、公会堂、家屋他
p8: 避難所で生活、保健所、小中学校、公民館
p9: <立ち上がる>仮設住宅
p10: <前へ進む>懸命の捜索活動
p12: <助け合い>新地町のために
p14: 子どもたちの笑顔にホッ <一歩ずつ前へ><笑顔をとりもどす>
 
p16: ~~どの様に長い歳月がかかっても、どの様に困難な生涯があっても、私たちは力を併せて必ずやかつての自然も,実りも、笑顔も、我が手に取りかえすことをここに固くお約束いたします(新地町町長 加藤憲郎)
p17: 町内で活躍した自衛隊福岡第2施設群からの寄せ書き国旗「まけんな新地」
p18~22: 「東日本大震災による行方不明者の死亡届について」ほか、復興支援情報や日常各種お知らせと情報。
p23: 休館していた施設の一部利用など。農村環境改善センター(震災対応のため利用不可)、多目的運動広場(仮説住宅用地のため利用不可)
後ろ表紙: 新地町合同慰霊祭。遺族代表「やりきれない思いもあるが、今日を境に、少しづつ日常を取り戻していきたい」

 余談ながら、息子が大熊町に転勤していた10年前に生まれた孫、小学4年の誕生祝いをした。出産手伝いに行った大熊町、橋の上から川面をみると魚が泳いでいるのが見え、緑も濃くいいい町だと思った。立派な図書館があり閲覧室も広いばかりでなく風情があり、時間があればゆっくりしたかった。
 孫一家はまもなく戻ってきたが、当時3歳で中学生になった兄の自転車、書いてある住所は大熊町のままだ。原発事故がなかったら、いつもの夏のようにお友だちに会いにいっただろうに。大熊町の人たち、いつ帰宅できるのだろう。

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