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2011年8月21日 (日)

東北の自由民権 鈴木舎定(岩手県)

 東日本大震災と原発事故で、国の行く末はどうなるのだろうと不安をぬぐえない。ところで自国への不安、江戸から明治へと回転の時も強かった。農民一揆や士族反乱があった。そこで明治の若者は自分の足下、地方から行動をおこした。

 西南戦争では朝敵の汚名をそそごうと戊辰戦争で敗れた者たちが、政府の新撰旅団に参加し西郷軍と戦った。旧盛岡藩士鈴木舎定(いえさだ)も仇を討とうと勧誘されたが断った。
「われわれはもう南部藩士ではないのだ。日本国の人民なんだ・・・・・・最大の急務は民撰議院開設に一身をささげて闘うのみだろう」

 鈴木舎定は藩校の作人館、15歳で上京し築地のキリスト教学校、中村正直の同人社で学んだ。板垣退助に共鳴し、星亨河野広中らと接触し民権運動家に成長していった。
 前述の佐藤郁二郎は『感懐録』に「東北七州会」が仙台で開かれ、河野広中や鈴木舎定、藤沢幾之輔らの演説を聴いたと記している。
 鈴木は旧藩有志が創設した書籍閲覧所求我社」内に夜学校を開き機関誌『盛岡新誌』を発行、また独自の憲法構想を訴え、地域に根を下ろした活動を展開した。
 五日市憲法を発見した新井勝紘の一覧表「明治前期の憲法諸構想」に
盛岡有志憲法見込案・1881・7 求我社 民権社>が載っている。

 自由民権運動というと板垣退助自由党など中央でのイメージが強いが鈴木を通して、運動を理解するには地方の民権家の活動を知ることが必要と感じた。
 なお1881明治十四年の政変後、政府の弾圧や内部分裂により、自由党は弱体化し急進派は武力蜂起に傾斜していった。鈴木も運動の行き詰まりの中でテロリズムに向かったが、盲腸炎にかかり急死、29歳という若さであった。
 参考:『岩手県の歴史』山川出版社

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