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2011年8月13日 (土)

仙台停車場事件 佐藤郁二郎(宮城県)

   東北新幹線は東日本大震災で一時運休、再開後も福島一ノ関岩手)など徐行中だが9月から通常ダイヤに戻る。そうなれば東京~仙台は最短で1時間38分。これほど近い仙台だが、鉄道はこれから敷設という1886明治19年停車場設置で 「郷里の興亡に関する一大事」があった。

 「日本鉄道会社」が東北貫通の幹線、仙台停車場を“宮城野原”にと発表すると、不便だとして官民合同で鉄道会社と折衝、繁華街の“仙台東六番丁”(現仙台駅)にすることになった。
すると東京の仙台人(仙台義会)がこの変更を
「将来の発展上、宮城野原を開拓して理想の市街を造り、道路、水道、ガスほか文明の利器を応用できる」と停車場変更を阻止する意見代表者を仙台に派遣した。その人物が司法省法学校に在学中の佐藤郁二郎24歳であった。
 郁二郎は県令(知事)松平正直をはじめ多数に説得をしたが、変更を阻止できなかった。もちろん賛成者もいて中には郁二郎を訪れ「白鞘の大刀」を贈ってくれるような老人、沼澤與三郎もいた。

 時が過ぎ、昭和になって都市計画が持ち上がり、郁二郎は
「改造よりも40余年前の主張のように別個の箇所を選び、新たに大仙台を造出する事が良策」と主張したが、街造りはどのような変遷を辿っただろう。そして今、大災害から復興と街作りに立ち上がっている。先人の説を顧みる暇はあるだろうか。

 佐藤郁二郎、仙台北五番丁の仙台藩士御徒目付の家に生れる。1862文久2年、安藤老中が水戸浪士坂下門外で襲われた年である。
 郁二郎は四書五経を習っていたが時代が変わり苦学して宮城師範学校に入り、卒業後小学校教員となる。その後、援助を得て上京し中江兆民の「仏学塾」でフランス語を学ぶ。
 郷里の人々の援助は
明治維新のさい東北は失敗し一山百文の悪名を負わされたから有為の者を都会に送って修学させ薩長の人物を圧倒し一日も早く雪辱を」との考えからである。

  郁二郎は必死で勉学に励む傍ら、「仏文会」に入り外国人の演説を聴いたり、賃訳(翻訳で収入)や夕方からは仏学塾から東京横浜毎日新聞社に通勤し校正をして収入を得た。
 板垣退助がフランスから持ち帰った政書の翻訳もしたが、名前は載らなかった。しかし、磯部四郎のジュールダン著『論理学』は独自の苦心の翻訳なので交渉して共訳者の名義で明治20年刊行。当時、政府はボアソナードを招いてフランス法制を研究中で、フランス語ができ将来にも役だった。

 その頃、司法省法学校官費生を募集していたので受験した。ただ受験科目が漢籍だったので仏学塾で公然と勉強しにくく、夜間ほかの学生が就寝してから押し入れに籠もって勉強をした。
 合格後は仏学塾から法学校に通学、必要な授業だけ聴講しすぐに帰ったので法学校生と知り合う時間がなかった。郁二郎は官費の学資を得るために入学したのである。
 それにしても郁二郎ばかりでなく明治人の勉強ぶりと修得能力には本当に畏れ入る。

 所であるとき、郁二郎は玉乃世履の裁判を傍聴する。その裁判は河野広中ら国事犯の事件で、弁護人は 星亨大井憲太郎らであった。郁二郎は玉乃裁判長の審理ぶりに感動して裁判官になろうと思い立ち、これより司法の道へ進み生涯を大審院判事として過ごした。
 ここまで佐藤郁二郎著『感懐録』により記述したが、次回もう少し紹介したい。手元の人名辞典になく没年不詳。
 ちなみに『感懐録』昭和7年12月10日 非売品、発行者本人・仙台市東二番丁92番地、印刷者宮城刑務所・仙台市古城町番外地。                      

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