終戦の日に 続・佐藤郁二郎(宮城県)
<2011年8月13日・仙台停車場事件 佐藤郁二郎>は、仙台でも東京でも学校を掛け持ち、翻訳アルバイトと寝る暇もないが、彼も人の子、吉原こそ行かなかったが楽しみはあった。団十郎、菊五郎、円朝、*伯円、越路、雲右衛門などを観た。そしてこれらは裁判官になった時に役だった。
さて郁二郎の上京はまさに「明治14年の政変」の時。郁二郎は明治天皇が関西から還り大隈重信らが従う行列を見物した。その翌日、大隈は政府を逐われ、「国会開設の詔勅」が発表になり、郁二郎ただ一驚、世間一般そうだろう。
学業を終えた郁二郎(25歳)は1887明治20年裁判官となり盛岡裁判所に赴任。以後、一ノ関、福島(会津)、仙台、再び盛岡、青森の各裁判所、宮城控訴院そして大審院判事に勅任される。佐藤郁二郎著『感懐録』には裁判間時代の人間模様やグチ、東京での自由民権の演説会など興味深いものが多いが割愛する。今日は終戦の日、郁二郎の戦争と国家についての考えを抄出したい。
(1932昭和7年・佐藤郁二郎)
近年、記念行事がはやっている。日清日露の凱旋時はもちろんその後も、分捕り兵器その他を麗々しく飾り立て戦勝記念の祝祭が盛大にこれ見よがしに挙行されている。
―― 日本人からみれば祝すべき名誉の事に相違なく悪い事といえないが、立場を替えて敗戦の支那国(原文のママ・中国)魯(ロシア)獨(ドイツ)から見ると「如何有ル可キカ」。
日本に大和魂があるようにその国々にも魂が有る。故に戦勝国のこの振る舞いを目にすれば敵愾心、報復心が生まれる。日本国民が敗戦者の立場にたったと想像すれば「思半ニ過クルモノ有ル可シ」
―― 我国は欧米各国の嫉視を受けている。一朝事があれば孤立の扼に瀕す・・・・・・日米戦争など余は賛成せず、むしろ友邦となるほうが得策・・・・・・
本来なら支那国(原文のママ)は同種同文の間柄で地形上、歴史上も唯一無二の友邦として相親愛し共に東洋の平和を確立しなければならないのに、政事家が国民と共に支那国民を軽侮するなど対策を誤った結果、我が国を敵視するに至っている。
―― 我が将兵、奔走に疲れ且つ死傷者が続いている。これまでは大和魂一点張りで戦えても、今は機会戦争の世の中なれば・・・・・・
世間は内閣の更迭をいうが、廻り灯籠の回転の如く英雄豪傑が卓出する訳でなく、同じ力量の人物が互いに循環するに過ぎない。
*伯円
明治10年2月『朝野新聞』。地方より上京して伯円を聞こうと柳橋の榎本亭へ三日間通ったが、聞けなかったという投書。伯円は一夜に5,6カ所掛け持ちするので、三日間に一度くらい回っていたという。
筆者は『感懐録』を法政大学の図書館で閲覧したが、国会図書館デジタルコレクションで見ることが出来る。この本には近代の有名人物が普通にでてくる。ふと、「有名と無名の境ってなんだろう」考えさせられた。
3・11からこっち、せめてもと東北に心をよせて人物を掘り出しているが、いろいろな人物に出会えて良かった。今、東北は困難な目に遭っている。一日もはやく子どもが笑顔いっぱいになれるよう祈るばかりだ。
| 固定リンク
コメント