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2011年9月 9日 (金)

たとえ小さな愛の灯でも――福島県飯舘村

 今から31年前、1980.12.3「新日本紀行」は、飯舘村のママさんコーラスが「たとえ小さな愛の灯でも」を合唱するのを映していた。以下はNHKライブラリー冊子の番組紹介
―――福島県飯舘村はこの年(昭和55年)、自分たちが食べる米にも困るほど凶作だった。その中で農家の奥さんたちはカンボジア難民に救援の手をさしのべようと、チャリティーコンサートを開く。山間の村の秋を追った・・・・・・

 その飯舘村は今、原発事故直後の風向きで放射能に見舞われ全村避難になっている。
  (2011.9.2現在)福島第1原発周辺の累積線量結果
浪江町赤宇木手七郎(31キロ北西) 67.99ミリシーベルト
飯舘村長泥(33キロ北西) 36.59
葛尾村上野川(31キロ西北西) 9.66 
  *()内は福島原発からの距離だが、地形や風向きで数値がかなり違う。

 同じ毎日新聞に飯舘村から福島市の仮設住宅に夫婦で避難している女性が載っていた。77歳というから31年前のチャリティーコンサートに携わったかもしれない。そのお話は
―――18歳でタバコ農家に嫁いで、何十年とタバコの葉を育ててきた・・・・・放射能はおっかないけれど早く戻りたい・・・・・・自宅の無事を確認すると少しは安心できる。

 食べる米が不足するほどの冷害にあっても、カンボジア難民を救うことを止めなかった。何故なんだろうと、NHKライブラリーに行って観た。

 チャリティーコンサートが開催された前年、飯舘村は大豊作だった。そのとき、カンボジア難民の事を知り、救う会を発足させたのが飯舘村の人々だ。全国から寄付もあり医療施設を備えた大型バスを送った。
 ところが翌年は農家が米を買わなければ成らないほどの凶作だった。
 飯舘村の昔は3年に一度くらい冷害に遭い、その都度助け合ってしのいだという。その
“困った人がいれば助ける”が脈々と受け継がれ、救う会をやめなかったのだ。しかもごく自然にやっている所がすごいと思った。
 この度の大震災原発事故で日本人が見直されているが、飯舘村民のような東北人がいっぱいいるからだと感じた。

 飯舘村・岩手県田野畑村はNHK特集「新日本紀行ふたたび」でも取り上げられた。
 震災後の飯舘村の豊かな緑と風情は一見変わりないが、人がいない。菅野町長、村の人たちの
まけねど飯舘」「もう一度ふるさとへ」が重い。

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