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2011年9月18日 (日)

与謝野鉄幹、居を靖国神社のほとりに

 前に「六分の侠気四分の熱、与謝野鉄幹・晶子/2011.6.18」を記し、また「朝鮮の土となろうとした鮎貝槐園/2011.6.9」では与謝野夫妻の住居跡の写真を載せたが、芸術家夫妻の暮らしぶりを想像することもなかった。
 それが、たまたま目にした
 <去年の冬に、居を靖国神社のほとりに、写しける折の歌。二首>
飯田橋の逓信病院の側に住んで、外堀辺りを歩いていたんだ!

 うち見てハ、膝を容るるに、足らねども、やがて野山も、容れむ宿かな。
 神垣の、さくらの紅葉、拾ひあげて、むかしの人の、血潮とぞみる。
         (『天地玄黄』(明治30年、鉄幹25歳)

 それから4年後、(鳳)晶子は大阪堺の家をでて東京の寛(鉄幹)の許にはしる。その夏、寛の協力をえて最初の歌集『みだれ髪』を鳳晶子の名で刊行した。29歳と24歳の情熱と才能は、雑誌『明星』など次々に開花、明治人は無論、今も人を惹きつけてやまない。
 
 下記は実際の暮らしぶりが垣間見える、長男の与謝野光「父母を語る」の一部(『明治文学全集51』月報より)。

―――父母は文学一辺倒で世俗的なことは嫌う風でありましたので、私の子どもの頃はまことに貧しい生活でありました。
 私が生まれました頃は渋谷に家があり、毎日のように大勢の社中の方々が出入り・・・・・・啄木白秋光太郎など・・・・・・賑やかでしたが、暮らしの方は随分苦しかったようで、母が嫁入りの時に祝って貰った二棹の箪笥は跡形もなくなくなってしまったそうです。
 父は芸術至上主義で経済のことは全く考えない人でしたから、台所を預かる母の苦労は大変なものであったでしょう

―――母は父に先立たれ気の毒なくらいに悲しんでおりましたが、その中から奮い立って「新々訳源氏物語」を書き上げました。そして最後まで、子どもの世話にはならないと頑張って居りましたのも、全く子どもへの愛情からだと思われます。 

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