大正の関東大震災
1923大正12年9月1日、突如として関東一円をマグニチュード7.9の大地震が襲った。湘南には大津波があり、建物はほとんど倒壊したうえに火災が発生、烈風が火勢をあおって東京を焼き尽くした。横浜もほとんど全滅した。一瞬にして約十万の死者をだすという大惨事であった。
電信電話・無線電話も不通となり東京は大混乱に陥った。余震がおさまらない中、「富士山が大爆発した」「朝鮮人や社会主義者が暴動」といった流言飛語が東京全市に広がり、治安確保と罹災民救護のために戒厳令がしかれた。
流言を信じ込んだ各地域の住民たちは自警団を組織し、多数の朝鮮人に迫害を加えた。三日後ようやく朝鮮人暴動は事実無根とわかり、警察当局は自警団の行き過ぎを抑えようとしたが、完全には抑えられなかった。
殺害された朝鮮人は数千人にも及んだ。また、日本人の労働運動・社会主義者も迫害をうけ、労働者が官憲の手で殺害されるという亀戸事件や甘粕事件が起った。
震災により生糸の暴騰、物資の不足、失業者の激増など混乱は11月になっても続いた。そのさなか虎ノ門事件がおこった。無政府主義者の難波大助が皇太子(昭和天皇)を狙撃したのである。皇太子は無事であったが、山本内閣は引責総辞職した。震災まもなく、政府は復興計画推進のため帝都復興院を設置し後藤新平を総裁に任命した。後藤は台湾の民政局長として、また満鉄総裁として腕をふるい、シベリア出兵を推進した人物で話が大きく、大隈重信とともに「大風呂敷」とあだ名された。壮大な計画をたて東京市復興を積極的に進めようとしたが、枢密院などの反対にあった。
関東大震災は東京の下町を焼け野原にして、かわって丸の内ビル街を発展させた。自動車・活動写真・カフェーなど都会主義の風潮が広がり、大量生産・大衆消費・大衆娯楽がすすんだ。
また、軍国主義が後退し、身体を傷つけたりして徴兵忌避をするなど徴兵検査で成績不良者がふえるなどということもあった。こうした風潮に加えて民衆の解放を求める動きがあり、政府は言論の弾圧を強めた。
このような時代にあって民本主義を説いて大正デモクラシーに貢献したのが吉野作造である。吉野は関東大震災の朝鮮人虐殺事件に取り組んで、被害者の人数を地域別に表示し、官憲・軍隊の責任を追及する文章を『大正大震火災誌』(改造社)に寄稿した。しかしこれは内務省の検閲により公表を禁止された。(『明治の兄弟 柴太一郎、東海散士柴四朗、柴五郎』より)
関東大震災で家を失った多くの人々が東北の郷里をめざし続々避難したという。当時、東京から青森へは20時間もかかったという。
それから88年後の平成の今、交通は便利になり情報も大正時代とは比べものにならない。が、原発事故という恐ろしい事までも起こった。被災された人に「頑張って」の励ましが酷な惨状で言葉もない。しかし、何時の災害も「何があったか」を記憶し教訓にしなけれと思う。
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