明治の作家・翻訳家&『仙台自由新聞』、原抱一庵(福島県)
卓球一筋の人には叱られそうだが、試合場でブログアドレスを交換、話に花を咲かせる事がある。「English-1collection」http://blog.alc.co.jp/blog/3302827のバネさんとも卓球の試合で知り合った。
English-1collectionは殆ど毎日更新され内容が深い。そればかりか膨大なアクセス数から英語の読み書きが達者な人が多いと知れ、感心するばかり。自分には遠いが、現代は趣味に仕事に英語が身近にあるのが感じられる。
しかし、140年以上昔は辞書や教材を手に入れるのは大変。でも、英語をものにしたばかりか西欧文化、文学迄も理解した若者たちがいた。『明治の兄弟 柴太一郎、東海散士柴四朗、柴五郎』でいえば、
“会津の三郎(山川健次郎・赤羽四郎・柴四朗)”はアメリカのエール大学、ペンシルバニア大学を卒業、学位も得た。
こちらは会津の三郎と同じ福島県出身だが二本松藩士の家に生まれた原抱一庵(俳人原袋蜘(たいち)の養子)という人物の話。抱一庵(ほういつあん)は上海の亜細亜学館(東亜同文書院)に留学し帰郷後、札幌農学校に入学する。農学校ではクラークの教え子から聖書・シェイクスピア・バイロンなどを学び夢中になり、他の教科に興味を失い退学してしまう。
22歳ごろ森田思軒(明治のジャーナリスト・文学者)に認められその縁で報知に入社、『郵便報知新聞』に小説「暗中政治家」を連載する。17歳頃、河野広中の『福島自由新聞』に短文をのせ福島事件の巻き添えで未決監に入れられた事があり、河野を素材にしたようだ。
『暗中政治家』(1891春陽堂)は人気を得、以後、創作や翻訳小説を発表、和漢洋の学を兼ね備えた作家として西欧文学を漢文調の美文で表現し名を知られた。
26歳で森田思軒とともに報知を退社し、仙台に赴き『仙台自由新聞』主筆となった。『仙台自由新聞』は1894明治27年創刊で自由党機関誌。
当時の地方新聞は中央のように中立主義の新聞は成り立ちにくく、政党色があった。日清戦争中は宮城県下で『奥羽日日新聞』『東北新聞』『東北日報』と、4紙で報道合戦を演じた。
その後、妻子を福島において東京に出、『東京新報』に文学作品の評論を書きつつ、同じ二本松出身の高橋太華の雑誌『少年園』にユーゴー『レミゼラブル』の翻訳「ABC組合」リットンの「聖人か盗賊か」などのせた。抱一庵の翻訳は逐語訳でなく文章は流麗で人気があったという。
ちなみに高橋太華は東海散士・柴四朗に縁があり、四朗も高橋に頼まれ『少年園』に寄稿している。
創作作品も残し業績はあるが、晩年は不遇であった。みるからに才気あふれた青年だったというから早熟過ぎたのか、生来の大酒ゆえか、精神に異常をきたし不遇の内に東京下谷の根岸精神病院で日露戦争さなか1904明治37年8月23日、39歳で没した。和漢洋の学問、文芸の才能がありながら精神を病んだまま、40歳にも満たず世をさったとは、何とも傷ましい。
参考:福島の児童文学者列伝5、コンサイス人名辞典
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