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2011年10月27日 (木)

橋本徳壽、気仙沼で一首

              蒼浪の天に寄りあふ海とほく わがつくりたる船はゆきけむ

 橋本徳壽(1894明治27~1989平成64年)横浜市生まれ、造船技師、歌人
   晩年の肩書きは、通商産業省中小企業近代化審議会中小造船業分科会長、94歳で死去。
 橋本を知ったのは『工手学校 旧幕臣たちの技術者教育』(茅原健・中公新書)を読んでである。「藤野先生」「マードック先生」それに「漱石も寺田寅彦の先生」と明治期の学校つながりで『工手学校』が目に入った。
 工手学校は私立工業学校の始まりで現在の工学院大学。学校の歴史は近代社会の歴史と重なり、創立に関わる名の知れた幕臣はもとより無名の人物も興味深い。が、そのうち取り上げることにして今回は、歌碑が天草島気仙沼国立公園にある橋本徳壽と気仙沼を少し書いてみる。

 橋本徳壽は家業が傾き苦学する。牛乳配達、新聞配達をしながら、国民英学会正則英語学校に通い、やがて工手学校造船学科に入学、卒業後は農商務省水産講習所助手となり、早稲田工手学校にも通った。
 やがて石川啄木の『一握の砂』に影響を受け短歌の道を歩み始め、歌集『船大工』や歌論など出すも造船技師はやめなかった。全国の海岸を回り、木造船の設計を手がけた。
 歌碑が天草島と気仙沼に、遠く離れた九州と東北にあるのはいずれも造船指導で滞在した土地だからである。『岩波現代短歌辞典』によれば、その作品は、生活実感をもとに端的に自己を表現するもの写実的な短歌という。

 ちなみに気仙沼は海に臨んでいるが、古くは漁業より製鉄が産業だった。しかし明治以降、産業の中心は水産業に変わり、帆走・手漕の小型和船漁労から大正期に発動機船が用いられるようになって急速に発展した。漁船・加工場の機械化の促進によって造船機械製作缶詰工場が発達した。
 造船技師として各地の職人、働く場を見つつ23歳で短歌を作り始めた橋本は 、戦中にあっても生活事実をみるリアリズムの目を失わなかった。その一首
     たたかえば勝つとたかぶる 人の子らの命無惨なる現実こそ見め

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コメント

東証、議事堂をご一緒し、みなさんと楽しかったですね。
秋田の峠を越えたら早速雪でした。バスのタイヤは大丈夫かしらん…と気をもんでおりましたが、運転手さんは「想定内、スノータイヤです!」ということで、一安心でした。
東北地方の地震にも心寄せていただいているのですね。東北の一員として、嬉しく思います。なぜか連帯感が湧いてきます。
私のブログ「マリエマリオ」で検索してください。
私の震災体験記を少しばかり書いてあります。

投稿: ぷーちゃん | 2011年11月16日 (水) 11時04分

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