岩手県立農業大学校(胆沢郡金ヶ崎町)
東日本大震災で困難に遭ってる人に何も力になれない。せめて福島、岩手、宮城を思ってブログを書くようにしたら興味深いことがたくさん。今では、東北にはどんな人物が、江戸から明治にかけて何が起きたなど掘り起し紹介するのが楽しみになっている。
岩手県立農業大学校に興味をもったのはその変遷にある。学校の前身は1898明治31年に誘致された陸軍省の軍馬補充部六原支部で最盛期には約3000haの原野を利用し、1000頭近い軍用馬を育成していた。
明治31年と言えば日清戦争から3年、日露戦争まであと6年、戦争が遠くない時代だ。“戦争と馬”を実感したのは柴五郎(福島県会津・のち陸軍大将)の軍歴を調べ中、防衛研究所図書館で日露戦争「奉天会戦戦闘当時職員現在表」(写真)」を閲覧してである。
柴五郎は日露戦争に野戦砲兵第十五連隊を率いて出征、連戦中に負傷した。写真はその時の表(明治38.2.27~3.11)で、
「死」「傷」それぞれに将校・下士兵卒・馬の数が記載されている。激戦で砲兵中尉1人と下士兵卒5人戦死、負傷は連隊長柴五郎を含め35人、馬7頭。下欄には戦死、負傷者氏名、また右下には二等獣医と三等獣医の名がみえ馬も戦力がよくわかる。
やがて昭和になり軍馬補充部は廃止、県立六原道場が設立された。道場は国粋主義と徹底した勤労精神教育で全国に名をとどろかせた。第二次大戦後は六原農場に生まれ変わり、六原営農大学校に発展。のち蚕業講習所・旧農業短期大学を統合し新農業短期大学、さらに1996平成8年に岩手県立農業大学校となった。この変遷はまるで時代を映す鏡のよう。
大学校は300haの広大なキャンパスをもち、実習農場や花卉センター、農業研修館などの研修施設、家畜舎・付属図書館が整っている。
2キロ先に相去(あいさり)村長を務めた桑島重三郎記念館があり、軍馬補充関係資料など収蔵展示されている(『岩手県の歴史散歩』山川出版社)。
ちなみに岩手、農業学校というと宮澤賢治を思うが、賢治が卒業したのは盛岡高等農林学校(現岩手大学農学部)のほうである。農学校建物は「岩手大学農学部付属農業教育資料館」となり、賢治在学中の資料も展示されている。
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