宮古港戦跡碑(岩手県)
東北陸中海岸の景勝地、「さながら浄土のようだ」(霊鏡和尚)という美しい浄土ヶ浜を観光したことがあるが、近くで戊辰の戦があったと知らなかった。
1869明治2年、榎本武揚の旧幕府軍がこもる函館五稜郭を目指し、明治政府軍が北上し宮古に入港するとの情報があった。榎本は函館から回天と高雄・蟠龍の3隻を宮古に向かわせた。
しかし出発後、暴風雨にあい回天のみで、最新鋭の装甲軍艦に舷側攻撃を仕掛けることになった。「敵艦に乗り込み、奪い取る」作戦だ。
明治2年3月25日、宮古港で30分の激戦の末、回天艦長をはじめ多くの戦死傷者をだして撤退。高雄は東郷平八郎が士官として乗っていた春日に追いつかれ自爆・棄艦した。
海戦に敗れた一ヶ月半後の5月11日、新政府軍が函館総攻撃を開始、一週間後に降服した。ここに1868慶応4年鳥羽伏見の戦いからはじまった戊辰戦争がようやく終わった。
三陸鉄道・宮古駅から浄土ヶ浜行き漁協ビルバス停近くに「宮古港戦跡碑」(大正6、題字・東郷平八郎元帥)。もう一つ、浄土ヶ浜お台場入り口に明治百年記念の「宮古港海戦記念碑」(昭和43、題字・鈴木善幸元首相)が立つ。
また戦死者は官軍墓地と無名戦士の墓(幕軍墓地)に葬られている。二つの墓地に眠る死者たち故郷はどこだろう。花を手向に参る縁者はいるのだろうか。それにしても2011年は大震災があった、死者も地下で心配なことだろう。
写真:国会議事堂横のイチョウ並木。議事堂側のイチョウはまだ緑、向かいの官庁街側はきれいに黄葉し日に輝いていた。道の両側で明暗を分けている。あまりに対照的、人間世界に当て嵌めたくなった。
歴史を勝者が著せば明るい社会、敗者が記せば辛い記憶と暗い世相。たとえば、明治新政府の歴史と東北諸藩の歴史は?
参考:『岩手県の歴史散歩』2006年 山川出版社
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