明治・大正・昭和期の小説家・劇作家、真山青果(宮城県仙台市)
2011.12.3「宮古港戦跡碑」を記した所へ、岩手県宮古市の「宮古に泊まってありがとうキャンペーン」観光で復興を目指す(毎日新聞)が目に入った。浄土ヶ浜には2度行ったが、いつの日にか3度目。
前回「フランス革命修羅の衝」の記事で大塩平八郎を題材にした小説にふれた。森鴎外の『大塩平八郎』は読んだが、真山青果の作品は知らなかった。真山青果の名は昔にラジオか、本だったか忘れたが、最後の将軍慶喜が江戸去る場面が心に沁みて作者を覚えた。ほかに読んだが題名を思い出せない。真山が東北出身でもありどんな人物かみてみたい。
真山 青果
1878~1948明治11~昭和23年。
本名彬、仙台市。小説家・劇作家。
家は代々伊達藩の大番組、父寛は*岡鹿門(千仞)の門下。東二番町小学校の名校長とうたわれた。
*当ブログ<2011.5.21「幕末の大阪で塾を開いた漢学者、岡鹿門(仙台藩)」>
真山は二番町小学校時代かなりの腕白小僧だったが、一度に三級も進んだほどの秀才。中学をから第二高等学校医学部に入学するが、移民熱にかられ家族の反対をおしきって退学、上京する。
ちなみにそのころ海外移民が増加し、それまでの保護規則では不十分となり1896明治29年、移民保護法が制定される。
ところで真山は上京したものの目的を果たさず仙台に帰郷、再び医学部に入学するも医者は元々の志望ではないとまた退学。以後、芸術で世に立つことを思いながら郡立病院の薬局生、開業医の代診、私立中学の国語教師など各地を転々した。やがて佐藤紅緑(詩人・サトウハチロー、作家・佐藤愛子の父)の門に入り寄寓、さらに小栗風葉(作家・尾崎紅葉門下)の弟子となった。
こうして小説を書きはじめたがなかなか認められず、小栗の代作をすることも多かった。やがて「南小泉村」が好評を博し、一躍文名をあげ自然主義の新進作家として注目された。
「茗荷畑」は自我が強い反面、自己反省に苦しむ人間像を描いて評価された。
しかし強い個性を濃厚に出そうとするにつれ、作品は理解されなくなっていった。
その一方で新劇に関心をよせ、イプセンの影響をうけた戯曲を発表、劇作家としての才能を認められた。ところが同じ原稿を別々の雑誌に売って避難をあび、気性の激しい青果もさすがにその後の作は生彩がなかった。
そのころから西鶴や江戸の学者についての考証、経済学の研究に力を注ぐようになった。
折しも新派の喜多村緑郎(のち重要無形文化財保持者)と出会い、1914大正3年、松竹に入社。新派の作者となった真山は亭々生の筆名で佳作「陸奥もの語」を発表、また樋口一葉の「たけくらべ」など多くの小説を脚色、新派の世界で重きをなした。
やがて1924大正13年、史劇「玄朴と長英」を発表して劇作家として復活。
以後「大塩平八郎」「坂本龍馬」「血笑記」など歴史物にすぐれた才能をしめした。
たまたま今日は12月14日、赤穂浪士討ち入りの日。
真山の戯曲「元禄忠臣蔵」は、できるだけ史実を生かしながら、登場人物も武士道の傀儡とせず一人ひとりに個性をもたせて新生面をひらき、観客に深い感動をあたえた。娘の真山美保は演出家・劇作家。
参考:『現代日本文学大事典』(明治書院)・『コンサイス日本人名辞典』(三省堂)
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