和算を教えた藩校・養賢堂(仙台藩)&山川健次郎の九九
年始めだが受験生は正月どころではないだろう。また中高生は勉強ガンバルゾ!と気合いをいれてるかな。それともゲームに時間をとられて、なかなか机に向かえない?
ところで昔は、誰彼なく進んで学問所に通ったのだろうか。江戸時代諸藩が設立した藩士の教育機関、藩学(藩校/藩学校)は約280校。岡山藩の花畠教場、会津藩の日新館など寛永(1624~43)ころに創設されたものが最も古いという。
教育内容は文武両道の理想から武術と漢学・習字などに限られていたが、幕末には洋学(蘭学)・算術・天文学・兵学など拡大していった。
日新館の秀才「会津の三郎たち」は戊辰戦争のさなか、会津に脱走して来て戦っていた沼間守一に英語を学ぶよう命じられるも果たせなかった。しかし四朗と健次郎はのちに沼間の塾で学ぶ。ともあれ3人とも明治初期にアメリカ留学する。
柴四朗(東海散士)は、はじめハーバード大学のちペンシルバニア大学を卒業。
赤羽四郎は、エール大学に留学、のちに外務省入り。ドイツ・ロシア・アメリカ公使館勤務、清国特命全権公使のとき、柴五郎大活躍の北清事変に遭遇する
山川健次郎もエール大学で物理学を専攻、帰国後東大で教える。高田早苗らに物理学の初歩を教えた。のち東大総長、貴族院議員。物理専攻の健次郎だが、
「十六歳で初めて東京で九九の呼び声を習った」。
武士に算術のようなものはいらないと考えられていたのだ。
算数が百姓町人のものと考えられていた時代に *和算を正課に加えていた藩校があった。
仙台藩の養賢堂で明治維新まで続いた学問所。大学・中庸・論語など漢学のほかに新蔭流などの剣技・種田流など槍術・八条流の馬術など教えた。宮城県庁議会棟の前に「養賢堂跡碑」がある(『郷土資料辞典・宮城県』ふるさとの文化遺産)。碑は3・11大震災で無事だったでしょうか。
*和算: わが国古来の数学で関孝和ら俊才を生み独自の発達を示した。しかし自然科学、物理学の発展、また記述に不便な点があったので、明治になって輸入された西洋数学に圧倒された。現在では、そろばん算法のみ残る。吉田流、亀井流、関流などあるが、養賢堂は何流だったのだろう。
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