「三足のわらじを履いてた」昔に書いた作文
初めて入った安田講堂、外見はただ古い感じだが中は半円の演壇を取り囲むようにソファーが放射状に並び、天井から昔風のシャンデリアがオレンジ色の光を投げかけている。学生紛争の名残りはないなと思いながら開放講座の始まりを待った。初回「夏目漱石と二〇世紀」は期待通りだったが、五回の講座、私にとって当りはずれがあった。偉い先生は主婦に理解されようとは考えないでしょうけど。
その日読んでいたのが、西郷隆盛らと活躍した大久保利通の孫、大久保利謙『日本近代史学事始め』。2階に上がり何気なく一室を見「あれっ」。さっき読んだ『東京帝国大学五十年史』の編纂を“安田講堂の一室”に毎日朝から夕方まで詰め・・・・・・その“安田講堂の一室”があるじゃない。こんな偶然もと一人うれしくその頁を開くと「大久保利謙著作集完結祝賀会」の写真、卒論でお世話になったY教授が著者と写っている。
大学へ行きたいと思ってたが英語がだめで踏ん切りがつかなかった。40歳過ぎ久しぶりにパートにでた。なんと、そこで通信制入学のふんぎりがついた。パートは銀行の窓口。その支店では新入男子に各係をひととおり見習わせる。私の元にも来て諸手続きを覚えた。どの新人も一流大卒でも教わる身だからかパートのおばさんに神妙だった。
ある日インド人留学生が来、新人A君が流暢な英語で応対、無事に受付できた。その時ひらめいた、大学へ行こう。A君に英語をみてもらおう。さっそく高校の成績証明書を取り寄せ、H大学通信教育文学部史学科に入学手続をした。それが主婦・パート・学生の始まり。三足のわらじを履いて時どき、一日が三十時間だったらと思った日々の始まり。
夜にスクーリングがある日は、朝食の片付けをしながら夕食を作ってから出勤。忙しくても先生や若い人に会えるのが楽しみだった。
スクーリング、英語は連日の授業ではついていけない。復習時間がとれる夜の週一授業にした。体育実技の卓球。ママさん卓球をしてる私は人気者?若い友だちができ、飯田橋や市ヶ谷の喫茶店でおしゃべりした。夜スクの日は帰宅が遅くなる。毎週タクシーを待つ姿を見かけた人がいたらしい。知人が「夜遊びしていると噂だよ」という。それで学校へ行っていると話した。そんなことから、大学で主婦学生にきいてみると「夜に旦那をおいて学校にいってるというけど何をしてるんだか?」など嫌みがあるようだった。
卒業論文。なんか学問という趣、大学生気分だが何にしようか迷った。そのころ読んでいたのが『日露戦争を演出した男』ウッドハウス英子著、ロンドン・タイムス記者モリソンの話。ここに「柴砲兵中佐」がたびたび登場する。
ずっと前『ある明治人の記録』<会津人柴五郎の遺書>を涙しながら読んだ。その時、“歴史を書くのは勝者、だから悲惨な話は伝わりにくい”と考えさせられた。なのに飢えに苦しみながらもけなげに生きた五郎少年を忘れていた。その少年と柴中佐が同一人物だったのだ。柴五郎が「軍人」ということでためらいはあったが、清廉潔白、略奪しない軍人、安政から昭和20年まで87歳の生涯は近代日本の激動と重なりテーマに選んだ。
以来、暇さえあれば国会図書館や有栖川宮公園内の都立図書館通い、ひたすら柴五郎である。テレビに日清・日露の戦争が写ると「五郎が出征した」。鳥羽伏見の戦いがでると「長兄の太一郎が活躍した。四兄は衆議院議員」などと聞かれもしないのに話すので、娘に「柴五郎はお母さんの恋人ね」とからかわれた。
さて、柴五郎の生地、福島県会津若松へ行くことになり娘が同行してくれた。駅前でレンタカーを借り行き先を聞かれ、会津若松城、寺に博物館、図書館など言ったら「娘さんの勉強にお母さんが付添いですか?」私たち母娘は外に出ると大笑い。後先考えずにとりかかってはつまずいたりする母、娘は休暇をとって興味がないのに付きあってくれた。
H大の川向こうに息子のR大があり学年は同じだが、そっちは化学なので私にはさっぱりわからない。母子とも4年で卒業、息子は社会人となった。私は元気で動けるうちに好きなことをしようと、パートをやめた。わらじを一遍に脱いで暇かというと、今朝も夫を送りだすなり、洗濯物を干しに階段を駆け上がった。やっぱり、朝からドタバタとせわしない。安田講堂の講座は先週でおしまい。今日は市立図書館の「史跡と植物をみる会」、市内巡りをする。遅れるとおいていかれてしまう。急がなくちゃ。
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