房総湾岸警備の会津藩・富津
今現在、私たちは思っている以上にたいへんな時代にいるような気がする。原発事故によりエネルギーに関することに敏感になっていて「富津火力発電所1基の供給停止・機器損傷」(2012.2.8毎日新聞)の記事を見ても不安感がただよう。訳もなく心配しても仕方ないのに大丈夫だろうかと思う。
千葉県富津には会津藩の跡を訪ねて富津陣屋と砲台があるのは知ってたが火力発電所は知らなかった。自分にとって富津といえば黒船来航・海岸防備である。なにしろ5kmも細長くのびた砂嘴(サシ)と三浦半島観音崎との間は10km足らずしかなく、目に見える距離だ。横浜まで見える富津の展望台に立つと“黒船江戸(東京)湾侵入!”すぐさま*和船を出し、三浦半島に漕ぎ急いだと想像できる。その幕末の不穏・不安と現代の不安感と較べようがないが、昔も今も安心な暮らしはいつなんだろう。
ペリーが来る前にもアメリカ東インド艦隊司令官ビッドルが浦賀に現れ通商を求め幕府はこれを拒絶した。そのいっぽう海岸防備を厳重にし、それまで武州忍藩が守っていた房総を忍と会津の二藩、相模は川越に加えて彦根藩も担当した。忍(大房崎~洲崎)・会津(富津岬~竹岡)・川越(走水~観音崎)・彦根(久里浜~三崎)いわゆる「御固四家」による防備開始。会津藩は人員はもちろん大小砲弾薬、兵器を房総の陣屋に送った。
房総半島の富津砲台はJR青堀駅からバスで富津岬、松林を抜けたところに史跡として残る。東京湾フェリーで35分、千葉・富津と神奈川・観音崎を結ぶ湾口は、黒船を入れてはならない重要な防衛線である。
会津藩は土塁を増築し砲を据付け、木更津の海岸に哨兵廠と武庫をつくり、江川太郎左衛門のヘキザン大砲、当時としては超弩級を安房の砲台に備えた。
富津陣屋は敷地の広さは約7800坪、周囲を濠および土手で囲まれていた。現地に行ってみると住宅地に隣接、松林が僅かに面影をとどめている。陣屋の西南には鉄砲場とよばれる鉄砲の練習所がある。
陣屋に赴任する家臣の多くは家族をともなっていたから、遺構からは女性の化粧道具や子どもの玩具、皿小鉢、土鍋した。東海散士・柴四朗はこの陣屋で生まれた。
海防の先端で四朗が生まれた半年後、1853嘉永6年6月ペリー艦隊の一隻ミシシッピー号が江戸湾入り口、水平線の向うから煙をはいてずんずん侵入、防衛線の富津・観音崎ラインを越えた!会津藩はすぐさま久里浜に向け*番船をくりだした。
早鐘がなり注進の馬は江戸へ疾駆した。幕府は海外情報を得ていたものの、いざペリー艦隊がやってくると上を下への大騒ぎ。老中・若年寄はじめ諸役人が夜中に総登城、江戸府内にも動員令をだした。
*和船・番線: ペリー久里浜来航の図」などでみかける黒船を取り囲む小船。
(『明治の兄弟 柴太一郎、東海散士柴四朗、柴五郎』より
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