続・柳楢悦「長崎海軍伝習所」「東京数学会社」
1853嘉永6年、柳楢悦は長崎海軍伝習所以来の勝海舟のもと幕府海軍による津海岸-伊勢湾沿岸の測量に参加した。この年はペリーが軍艦4隻をひきいて神奈川・浦賀に、またロシアのプチャーチンも軍艦をひきいて長崎に来港した年でもある。
柳楢悦(方二郎)が学んだオランダ海軍伝習は明治の科学技術近代化の核となったが、楢悦もその一角を担った。藤井哲博『長崎海軍伝習所』(十九世紀東西文化の接点・中公新書)は、幕府や諸藩から派遣された伝習生たちがオランダ教師団との文化ギャップをいかに乗り越え、咸臨丸の遠洋航海に漕ぎつけたか。伝習生の顔ぶれ、教科、伝習所の日々の生活をつぶさに写しだしている。
『柳宗悦と朝鮮』では海軍に於ける柳楢悦と勝海舟の縁を強調。それもあろうが『長崎海軍伝習所』によると、何より楢悦の能力・学問が海軍での地位を高めたといえそう。以下、同書より。
1883明治16年頃からイギリス式を仕込まれた海軍兵学校の士官の方が伝習所出身者より優勢になってきた。そこで海軍は1887明治20年「士官学術検査」で旧士官をふるいにかけ学芸・技術が不足する者をまとめて淘汰した。柳楢悦はむろん合格で、伝習所出身ながら榎本武揚、川村純義らと同じくのち将官となった。
柳楢悦は水路係、水路寮、水路局、水路部と水路畑を歩き、外人の力を借りることなく、日本の水路事業の基礎を確立した学者肌の提督である。水路図誌は軍艦はもとより商船の航行にとっても不可欠で、その初めから柳が管掌していた。
また、水路業務の一環として天文・気象観測の必要性から柳は1874明治7年東京・飯倉に*海軍気象台を完成させた。明治17年には自らイギリス・グリニッジ王立天文台ほかヨーロッパの天文台を見てまわった。帰国後、英国製自記験風儀、ドイツ製大子午儀などを入れ、観象台の能力を高めた。
海軍伝習所には柳と同じ和算家出身のもと幕臣の小野友五郎がいた。ともに学問もあり測量など実務にもすぐれていた。二人は*「東京数学社」に関わり、柳は社長をつとめた事もあり、小野も創立以来の社員となって明治の数学に指導的役割を果たした。
*東京数学会社: 明治前期の数学専門の学会。神田孝平・柳楢悦・岡本則録らが1887明治10年、和洋算家を集め設立。菊池大麓(父は箕作秋坪)・長沢亀之助らも参加した。機関誌は問題集。のち東京数学物理学会となる。
柳楢悦は1891明治24年59歳没。この年、楢悦の三男で民芸運動創始者として知られる柳宗悦はわずか2歳であった。
☆☆海軍気象台について参考になるコメントをいただきました。興味のある方は下記コメントをどうぞ。
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コメント
1874(明治7)年 柳楢悦が完成させたという海軍気象台。飯倉という地名からすぐピンときたので港区の資料で確かめてみたところやはりそうでした。現在国土地理院の日本経緯度原点の標識がある場所です。日本経緯度の原点は花崗岩の台石に金属板をはめ十字で位置を示しています。港区麻布台2丁目 数年前行ったのですがロシア大使館の裏手で崖の端。ごく分かりにくい場所でやっと探し当てました。1888(明治21)から此処にあった旧東京天文台の前身が柳楢悦の海軍気象台だったのですね。東京天文台は関東大震災後三鷹に移りましたが、それまで明治大正を通じここで天文観測が行われ、ここは日本の位置の基準を決める重要な場所だったのですね。そのルーツが柳楢悦の海軍気象台。歴史はいつも身近なところで繋がっていますね。
投稿: 歴史の輪 | 2012年2月14日 (火) 16時34分