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2012年3月25日 (日)

明治弁護士、菊地武夫(岩手県)

 二泊三日ツアー。ブルートレイン夜行寝台に揺られ車中泊。朝、大阪駅から有馬温泉、神戸異人館巡り、神戸港をクルーズし大阪泊まり。翌日は奈良公園、大仏様と鹿にも会って名古屋城へ。城の石垣、積み方が江戸城のようにきっちり?してないのが気になった。
 ツアーならではあっち見こっち見、忙しくも楽しいを味わい新幹線で帰るのに駅へ。卒業式シーズン、名古屋駅構内は袴姿の女子学生が次々やってき夕方の混雑が華やいでいた。
 明治の昔、卒業は厳かな式次第のみ?それとも次へのステップ門出の喜びであふれてた?菊地武夫が卒業した1875明治8年の東大卒業式はどうだったろう。

 菊地武夫は1854嘉永7年7月28日、岩手県盛岡に生まる。『岩手県国会議員列伝 私撰投票』(村上繁次郞著・明治22/近代デジタルライブラリー)には、「幼ニシテ奇抜ノ行為アルヲ以テ世人神童ト称ス」とあり、11歳で儒者・江幡五郎に入門し漢籍を学んだ。
 師の江幡五郎は吉田松陰らと交際があり修文所を設け藩の子弟を教育していた.。が、戊辰戦争がはじまると学問所を閉め奥羽列藩同盟の牛耳をとる。武夫少年は家に戻ると藩の小豆隊に入った。
 盛岡藩は洋風の練兵をし子弟を15歳以上と以下の二つの組にに分け訓練した。人はこれを豆隊・小豆隊とよんだ。武夫の父・仙介は目付役として隊伍を組み相馬に出張したが、のち秋田との境を固める。しかし戊辰の戦は終わり世は明治と改められる。
 1869明治2年、武夫は「もう侍ではやっていけない」と勉学の志をたて父を説得した。しかし学資は貰えないまま上京。その時の武夫を墨堤隠士は記す。
―――嚢中また一物の貯えとてもなし、行程積んで一百里、その堅忍や称すべく、その不撓や賛すべきである、今日の飽食暖衣の少年また以て如何となすか(『明治人物の少壮時代』明治31/近代デジタルライブラリー)。

 上京したものの宛のない武夫少年を憐れんだ南部藩目付役が南部英麿の近侍として推薦してくれた。勉強に励んでいたが英麿が帰国となり武夫も仕方なく英麿に従い郷里に帰った。
 翌年、官費出京を命じられ再び上京。武夫は伊藤庄之助に英語を学び、ついで大学南校・開成学校(東大)で法律を学ぶ。同クラスに鳩山和夫(政治家・弁護士)がいた。

 1875明治8年卒業。留学を命ぜられアメリカ・ボストン大学に入学。法律を学び学位を受け、そのまま同地に留まり憲法議院法を研究、また裁判所に入り訴訟の実地や代言弁護の講習も受けた。
 1880明治13年、アメリカからイギリス・フランスを回って帰国、のち法学博士の学位を得る。
 その他おもな経歴。
 1880明治13年、司法省雇/14年、代言人試験委員・東京大学法学部講師/17年、司法省書記官/19年、司法大臣秘書官/20年、司法大臣北海道及び奥羽巡視に随行。
1885明治18年、英吉利法律学校(中央大学)を創立した法律家18人の一人。中央大学初代学長。東京弁護士会会長もつとめた。その人となりは
―――温厚篤実にして・・・・・・弁舌明確一言にしてよく錯綜の乱麻を解く 君常に人に語て曰く法律は実地応用の学なり 然るに学者往々空理に失して之が適用如何を顧みざる者あり 豈亦戻らずやと 以て君が実理の高見を知るに足るべし(『明治弁護士列伝』(明治31東恵仁編・周弘社/近代デジタルライブラリー)。

 当ブログでこれも東北、仙台藩士の子で裁判官、大審院判事に勅任された佐藤郁二郎(2011.8.13/8.15)をとりあげたが、今回の菊地武夫といい戊辰戦争で敗者となった側の子弟の勉学の困難さと努力にただ頭がさがる。時を経て大震災、原発事故がおき、今また東北の方達が志を果たすには大きな困難を乗り越えねばならなくなっている。

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