ホイットマン・東海散士・ポウ(吉川幸次郎)
吉川幸次郎エッセイ集『他山石語』(1955昭和30年・毎日新聞社)を読んだ。
若いころ吉川の『新唐詩選』で李白や杜甫に親しみ「国破れて山河あり」など暗唱した。又よくある友情の漢詩に憧れたが今は、真の友情は少なく貴重だったから謳われたのかなとも思う。
吉川幸次郎(1904明治37~1980昭和55)といえば中国古典の大学者であるが、平易ですっきりした訳で漢詩の世界を拡げてくれた。
『他山石語』で知ったが守備範囲が広く、ホイットマン・東海散士・ポウが並んでいても不思議でない。以下、「詩人故居」ペンシルバニア大学・中国哲学史ボディ教授を訪ね、合間に散策したフィラデルフィアより。
まずペンシルバニア大学の附属博物館で大学派遣・探検隊の収穫、近東の発掘品「楔形文字」の文書などを見、翌日、地下鉄に乗り、ホイットマンの旧宅を訪れる。
あなたに
見も知らぬ人よ、あなたが行きずりに、私に遇って、話しかけようと望むなら、
話しかけて悪い訳が何処にあらう、
又私があなたに話しかけて悪い訳が何処にあらう。
(有島武郎訳「草の葉」)
ホイットマンの家では管理の老婦人に「70年前のホイットマン先生終焉の寝室」、『草の葉』日本訳の冊子など見せてもらう。エッセイにはWhitman詩一節あり。
民衆詩人ホイットマン『草の葉』は自由・平等・友愛を謳い、従来の詩の形式と内容思想を革新した。
次はインデペンデンスホール
―――東海散士一日フィラデルフィア(費府)にインデペンデンス(独立閣)に登り、仰いで自由の破鐘を観、俯して独立の遺文を読み、当時米人の義旗を挙げて英王の虐政を―――
『佳人之奇遇』の書き出しそのままの地で吉川は、散士と紅蓮と幽蘭の出会いを思い感慨にふけっていると、美女ならぬ修学旅行の小学生たちに囲まれる。二美女に会えるわけでもなしと思った折しも一佳人、
「外国人の私にもくろうとと察せられるあだっぽい女が、亭のそばの家のドアをあけて入っていった」。
フランクリンの墓にも行く
―――ああ、公(フランクリン)は自由の泰斗にして、学術の先進なり。児童走卒も、名を知らざるはなし。米国の独立、公の力に依るもの真に多しとす。而して墓碑わずかに芙蘭麒麟(フランクリン)の数字を刻する有るのみ、と。
次は近くの教会や史跡を見、電車に乗りE・A・ポーの旧宅を訪ねた。
場末めいた街角、赤煉瓦の二階屋「ポウが大鴉を書いた家」があった。吉川は中年女性の案内がいんちきぽいと50セント払ってすぐ去る
―――(案内人)部屋のここのところはポウが借家していたときのままです。あちらの部屋の方は、つけたしたもの。その辺にならんでいるものも、ポウがつかっているものではありません。しかし、あなたはそれを怪しんではいけない。ご承知のとおり、ポウは放浪の詩人です。
*ポー(1809~49): 詩、推理小説まで後代に与えた影響は大きいが、酒と麻薬の乱れた生活、錯乱状態の中で死去。生涯を考えると「かつて住んでいた」と聞けばそうかと。
次に市立美術館を見、デラウエア川の支流にそった公園を散歩し、ニューヨーク行きの汽車を待つ間、
「このあたりの風景は『佳人之奇遇』1885明治18年頃とあまりへだたりがないらしい」と。そうして、1885明治18年、ホイットマン66歳、ポウは死後36年目だと記してエッセイを結ぶ。ちなみに当時、東海散士こと柴四朗は33歳である。
『他山石語』からさらに60年近い2012年、フィラデルフィアは変わっていそうだが、どうだろう。
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