明治:野球は巾着切りのゲーム?
明治生まれの父は浅草育ち、麻雀もすれば大学野球を観に球場へいったりの楽しみをもっていた。もちろんお酒も。子どもに厳しい父だったが、巨人ファンでドームになる前の後楽園球場に家族をつれて行ってくれた。
私の結婚相手も巨人ファンだったので、婿舅仲良く雀卓を囲み、時にはみんで球場へ。それにしても夫は長野県人なのになぜ巨人贔屓? すると、ラジオ中継が巨人戦ばかりだったという。なるほど、地方にも巨人ファンが多いのはそのせいかな。
それからウン十年、2012年シーズン開幕するも地上波で野球中継は滅多にない。そのうえ、巨人ときたらイメージも成績もがた落ち。なのにスカパーで巨人戦をみてる。
海の向こうメジャーリーグではダルビッシュと黒田投手が投げ合いカッコイイ。それに引き替え巨人は・・・・・・好きな事を仕事にして生活してるんでしょ! 頼みますよ。他所から4番獲るな。若手を育てよ、などなど文句は尽きない。でもファンやめられない。
ファンといえば松井秀喜選手も好き。シーズン始まったのに所属が決まってなく残念。でもプレーする日は遠くない。マイナー契約でもメジャーにあがればいいし、上がれる。
それにしてもメジャーリーグも身近になったものだ。アメリカ育ちの野球が日本に入ってきたのはいつだろう。年表をみるともう140年前にもなる。ふり返ってみよう。
『近代日本総合年表』(岩波書店)
1873明治6年 開成学校の米人教師ウィルソン、初めて野球を紹介。
1877明治10年9月24日 西郷隆盛城山で自刃、西南戦争終わる。
この年、平岡凞、米国より帰国し野球の指導を始める。
1878年、ベールボールチーム・新橋クラブを組織。 1882年、野球場新設。
1895明治28年2月19日 清国、(日清戦争)講和全権に李鴻章を任命の旨、米公使をへて通告。
2月22日 中馬庚、base ballを野球と訳す(従来、塁球・庭球・底球など)。野球の名付け親は正岡子規だとばかり思っていた。
野球人気を『ニュースで追う――明治日本発掘』(全9巻・河出書房新社)より。
* 一高野球部、外国人チームに大勝(明治29.5.25 読売): 天下に敵なきより闘技を横浜の外人に挑み・・・・・・横浜公園においてヨコハマ連合倶楽部に大勝利。
* 待ち焦がれる早慶戦、観衆2万/初戦は慶応に凱歌(36.11.22 時事)
* 早大野球部がアメリカ遠征(38.6.28 国民新聞)
* 手に汗握る観戦記・鉄骨童子(39.4.10 東京日日): “盛んなものは目下の野球界なるかな、分けても近来の大合戦は早慶試合”ではじまる観戦記(名調子で面白いが長いので割愛)。その終わりは“たちまちドウと挙がる早軍の勝ち鬨。早軍の狂喜は実にその極に達して、乱軍の光景は惨として譬うるに物がなかった。殺気は天に漲った”。
* 新渡戸稲造が野球熱批判、野球は巾着切りのゲーム?(44.8.29 東京朝日): <新渡戸一高校長談>野球という競技は悪く言えば、相手を常にペテンに掛けよう、計略に陥れよう、塁を盗もうなどと眼を四方八方に配り、神経を鋭くしてやる遊びである(中略)ここに最も憂うべきことは、私立は勿論の事、官公立の学校といえども、選手の試験に手加減することがあり得ることである(後略)
* 野球は害毒のキャンペーンに天狗倶楽部反発(44.9.2 読売): 天狗倶楽部代表は押川春浪(明治の冒険小説家・早大)・中沢臨川(明治・大正期の評論家・東大)。
新渡戸稲造 1862文久2年~1933昭和8年: 教育家、農学博士、札幌農学校卒。英文の著書『武士道』は有名。
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