山東直砥(一郎)の英語辞書
新国立美術館の案内をもらい友人と乃木坂駅で待ち合わせた。駅の案内板に青山霊園とあったので、先にそちらへ向かうとすぐそこだった。しかも桜が満開だ。これは「よいときに来た」昔の乙女二人、桜につられて足の向くまま園内を巡った。
大久保利通や野津道貫といった政治家・軍人、外人墓地には御雇外国人や宣教師、数え上げればキリがないほど著名人が葬られている。“明治”が眠っているのだ。
それにしても三島通庸の巨大な墓には驚かされた。「土木県令、民権弾圧のイメージだけどお墓すごいね」二人して見上げると墓石が斜めだ。方角?それとも地震?
歩くうち「たしか山東の墓が・・・・」そこで管理事務所を訪ねると地図をもらえた。見れば、三島の墓から遠くない区画、直に見つかった。なかなか立派で山東昭子参議院議員の曾祖父というのが、なるほど。
山東一郎(山東直砥1839天保10年~1907明治37年)
に興味をもっている。
『明治の兄弟 柴太一郎、東海散士柴四朗、柴五郎』を執筆しているとき、こんな面白い人物がいたのかと思わず略伝を載せたほどである。もし興味を抱いたら、“「明治の兄弟」p90第4章 英語塾と山東一郎(直砥)”をごらんください。
当ブログでも何度か――左の検索[ ]をどうぞ。次は昔の人名辞典から。
直砥: 紀伊の人、三栗と号す。*露語に通ず。維新の初め開拓使判官となり、*10年陸奥宗光に党して、政府を覆さんと謀る
(『日本人名辞典』1914大正3年 文学博士芳賀矢一編・思文閣)
*ロシア語:ニコライ堂でおなじみ宣教師ニコライに北海道で教わる。
*明治10年:西南戦争の年。明治新政府を倒す計画がもれて陸奥は入獄、山東は逃れる。陸奥はかつて坂本龍馬の海援隊に加わる。その陸奥が許され神奈川県令になると、山東も従い神奈川県参事として働いた。二人とも和歌山県出身。
以前は山東が編纂した英語辞書をよく知らなかった。それを法政大学図書館でみることができた。漢和辞典に英語を挿記したもので
<山東直砥増補『新撰山東玉編英語挿入』(1878明治11年)>1084頁にもなりかなり分厚い。
ちなみに、英和辞典発達史―――明治学院大学図書館・デジタルアーカイブスで知ることができる。たとえば「ヘボン辞書の特徴」「ヘボン式ローマ字への道」など興味深い。
追記: NHKで吉里吉里中学の生徒が郷土芸能・虎舞を披露する様が放映されていた。災害復興支援にきてくれた明治学院大学の学生に感謝の舞。衣装をつけて踊る中学生はもちろん見入る明治学院生も元気をもらった事でしょう。テレビを見た私たちもね。2012.4.13
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コメント
明治以降の風俗史をしらべています。明治に薔薇を輸入したといわれていますが第一資料が出てきません。何時どのように何をどういったいきさつで輸入したのかを知りたいですし、肖像とかも欲しいです。国立公文書館等はあたったのですが明治に公文書を消失していて残されておりませんでした。お判りになられることがございましたらご教授お願いいたします。
投稿: 永本ツカサ | 2016年5月20日 (金) 02時35分