明治・大正期の英語学者、斎藤秀三郎(宮城県)
1884明治17年、弱冠18歳の斎藤秀三郎が仙台で英語塾を開いた。
明治17年といえば国外では清仏戦争、ベトナム支配権のためにフランス艦隊が清国・福州を砲撃。日本の参謀本部は偵察の将校を派遣、清国差遣中の柴五郎砲兵中尉(会津)もまた福州に赴いた。
朝鮮ソウルでは金玉均らがクーデターをおこすも失敗(甲申事変)、日本に亡命という事態。
動揺するアジア近隣諸国と日本は無縁ではなく、むしろ積極的に関わっていた。
また国内も、自由党員の挙兵計画が発覚(飯田事件)、鎮圧の軍隊が出動した秩父事件など動揺していた。しかしその一方で社会・学術では暮らしに近代化が浸透、
[警視庁、巡査派出所に天気予報の掲示をはじめる]
[東洋英和学校、東京麻布に開校]
[小学校の教科として初めて英語を加える]
[東京数学会社、東京数学物理学会に改組]―――当ブログ<続・柳楢悦「長崎海軍伝習所」「東京数学会社」>に関連記事。余談。明治17.4.7 山本長五郎(清水次郎長)、賭博で懲役7年、罰金400円に処せられる。
宮城県では明治政府の殖産興業政策として着手されていた野蒜築港が、この年の台風被害で廃棄となる。1887明治20年、第二高等中学校(旧制二高)が創立され斎藤秀三郎は助教になる。が、間もなく辞職。
岐阜中学校・長崎中学校・愛知県尋常中学校をへて1894明治27年、28歳で第一高等中学校教授になるも3年で辞職。しかし斎藤秀三郎の本領はこの先にある。以下『民間学辞典・人名編』1997.6.10(三省堂)より
斎藤秀三郎(1866慶応2~1929昭和4)
英語学者・正則英語学校の創立者。父は仙台藩士。
藩の英学校辛未館、宮城英語学校をへて東京大学予備門に入るが退学。ついで工部大学校に入るも退学、仙台で英語塾を開くも失敗。その後の経歴は前出のようにあちこちの中学校を転変。それは個性の強い非妥協的な性格を物語る。
1896明治29年、東京・神田に正則英語学校を創設、一時は生徒3000人を集め、正統的な発音と文法理解に重点をおいた。
英語慣用語学をうちたて、英文法の科学的研究をすすめ近代の日本のスクール・グラマーの骨組みを天才的な語学力により独力で築きあげた英語教育史上の功労者である。
著書多数、うち『熟語本位 英和中辞典』は個性的な辞書として、改訂増補をへて現在も用いられている(寺崎昌男)。
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